フライフィッシングの楽しみ方あれこれ2010/05/05 12:36

・独り言

今さらフライフィッシングについて説明する必要もないと思いますが、簡単に言えば、鈎に鳥の羽や化学繊維を巻付け一見虫らしく見せて魚を釣る釣り方です。

一口で言えば、まあ味もそっけも無い表現になるのですが、これがどうして仲々奥が深くて、ついついのめり込んだら出口がわからなくなってしまって未だにどっぷりつかったままでいる人が多いというのは、やはりそれなりの理由がありまして、これも簡単に言ってしまえば「面白いから」と言うことにつきるでしょうか。 遊びをやるのにわざわざ理由をつけることもないのですが、部屋の電気を暗くして大の大人が独りぽつんとTVゲームでドラクエIIIに夢中になっていたりして、呪文が一つわかったなどとニャッと笑いながら翌日の昼頃赤い目をこすりながら起き出すのに比べれぱ、明日行く川と、ひょっとすると釣れてくれるかもしれないヤマメを頭に浮かべながら、ニヤニヤして毛鈎を巻き、翌朝に備えて早寝するのは健康的と世間では思うかもしれないけれど、でもどこか相通ずるところがあったりして、早い話、本人が楽しんでいる分には害は無いのですが、他人を巻き込むとなると話は別で、この記事を読んで又一人フライフィッシングに狂う人が生まれると思うと、どこかおそろしい、と思ったりするのです。


・やってみたいと思っている人へ

さてフライフィッシングはやりたいが、道具をどこで揃えたら良いかわからないし、それに釣る場所もわからない。 それより先に自分に出来るのだろうかなどと思いつつ釣りの本やアウトドアの雑誌などをめくっている人が多いのではないかと思います。 でも現在ではこれらの疑問について心配する必要はまったくありません。 第1に東北地方を流れるすべての川でフライフィッシングが出来るのです。 20年前ならいざ知らず今ではちょっと大きな町なら必ずフライの道具を扱っている店がありますし、大抵そんな店なら初めて行って何も買わなくとも、竿の振り方から始まって、毛鈎の巻き方まで教えてくれます。 何度目かには昨日釣れたポイントやヒットした毛鈎も教えてくれるはずです。 もしもそんなお店でなかったら、今後お付き合いするのは考えた方がよいと思います。 お店の場所はNTTのタウンページをめくればすぐにわかります。

又、フライフィッシングを専門にしているお店なら年にl度位は、お客の親睦をかねてフライフィッシング・スクールを開校したり、シーズンオフにフライタイイング・スクールを開いたりしています。 かえって地方には無いものとばかり決めつけて東京あたりにタックルを買いに出かけたり、あるいは通信販売で求めたりすると、売る方では悪意はないのでしょうが正確にこちらに適した物を把握してもらえず、知らずにちぐはぐな物を手にして気付かないでいてしまうのです。

予算ですが、大体スキーの一セット位を考えておけば良いでしょう。 つまり安いのはそれなりのセットがありますが、最低4万円程度は見ておいた方がよいと思います。 どうせすぐ高いのが欲しくなるのだから初めからいいものを買った方がよいと思う人もあるでしょうが、やはりスキーと同じで、高い物程個性が強く出て初心者には使いづらいものです。 カタログまがいの雑誌の中で釣れた魚と共にさりげなく写真に写っているロッドを見て、ついつい憧れて入手したのは良いが、自分の実力では使いこなせず、その挙句に中古品として巷に流すことになります。

一シーズンか二シーズンもやれば自分の行く川の状態もわかりますし、現在使用している道具のどこが不満かもわかります。 初めのセットはいわば入学金と思ってください。

さて釣場のことですが、東北で一番大きい街といえば仙台ですが、この街からでさえわずか30分も車を走らせれば、フライフィッシングでヤマメもイワナも釣ることが出来るのです。 仕事が終わって残業のなかった日なら、日暮れ時、遅出の日なら朝9時までなど、日曜日を待たなくとも楽しめるのです。 もちろん毎日ベストの状況とは限りません。 良い日もあれは、駄目な日もあります。 でも回を重ねることでチャンスに恵まれます。 そして遠くに飛ばすより、できるだけポイントに近づいて正確に毛鈎を落とした方が、釣り易いことに気が付くでしょう。 Xヤードまでラインを飛ばせるようになるまではフィールドに出てはいけない、と惑わす様な書き方をしている入門書より、自然の方がずっと上手な先生なのだと気付くはずです。 実はこの辺りが見えてくると、東北地方に住んでて良かったなと思わず感激してしまうのです。


・ちょっと堅い話になりますが

鮎釣りでもへら鮒釣りでも、初めは一地方の釣りだったのが、長い年月と多くの人の努力で、試行錯誤を繰り返しポピュラーな釣りになる間に、ルールやマナーが生まれ現在に至っています。 ところがフライフィッシングに関しては若い連中が飛びついたせいもあるのですが、ルールやマナーが完成する経緯が十分に紹介されないで、道具と釣り方だけが外国から入ってきたような気がします。

例えばフライフィッシング発祥の地と呼ばれる英国のバッキンガム宮殿で、衛兵の交代が始まると行進の通り道にあたる道路は、人も車も通行止めになるのですが、その時出る看板は「私有地につき通行止め」と書いてあるのです。 つまり女王陛下の私有地をふだんはタクシーが走り人が行き来しているわけです。 むろん英国全土が王室の私有地ではなく、国有地だったり民間所有地だったりするのですが、これらの場所でもよほどのことが無い限り、自由に出人りさせてくれるのです。 私有地だから石一つまで待ち主の物であるという現実と、公共の物を汚してはいけないというしつけが、子供の頃になされている背景があればこそ、普段は自由に出入りできる状態を作り出しているのだと思うのです。 このモラルが確立していることが、ナショナルトラスト運動の成功に結び付くのではないかと思うのです。

フライフィッシングはこのような環境の中で完成してきたわけですから、絶対に自然を守らなければ、私有地の一部である川から締め出されてしまうのです。

フライフィッシングを学ぶ時に、ルールやマナーが完成する過程を知ることは、自然を守ることを知ることにつながるのです。 このことを十分に理解しておかないと、訳もわからず餌釣りを見下したり、的はずれのキャッチ&リリースを他人に強制したり、道具のブランドだけを競いあうガキの釣りに成り下がってしまうのです。

(自然倶楽部1988年5月号 42-43P)

フライで魚が釣れない原因あれこれ…2010/05/05 12:38

フライ・フィッシングを始めて間もない頃、目に入るフライ雑誌は手当たりしだいに読みまくった。 しかし、どれを読んでも書いてあることといったら釣れたことばかり……でるのは溜め息ばかりなり……的な心境である。

同じ事をしているはずなのになぜか釣れない人には、思い当たる節があるハズ。

そこで、現実のフライ・フィッシングについてすこし考えてみよう。


・物語の中の恋人

物語に出てくる恋人はいつの場合でも理想の相手である。 忍耐強く、優しく、華麗な容貌……etc。 どんな無理難題にも黙って理解を示す心の大きさ。 まさに理想の相手なのである。 物語であることが初めから分かっているので、本を閉じたとたん現実に引き戻されてもギャップは少ない。

もうかれこれ三時間も歩いただろうか。 ヒグラシの声を間きながら何度も激流を渡り、狐の足跡を見ながら沢を降り、カワセミの飛ぶ姿を眺めながら一人静かにロッドを振る。 一枚のイワナの写真とそのコメントを読むにつけ、こうありたいいやこうでなければと思いこんで始めたフライ・フィッシングなのに、実際は川沿いの国道を走る観光バスのカラオケを聞き、空缶を踏みつけながら釣り遡る。 理想と現実のギヤップは開いていくばかり。 あげくのはてに一度も魚と出会うチャンスがなければ、フライ・フィッシングとはこんなものだったのかと勝手に納得して、さっさとやめてしまうだろう。

もともとイワナやヤマメが棲みついているフィールドに道路を作って侵入したのは我々人間のほうなのだから、ポイントのシチュエーンョンが悪いなど、はなはだ身勝手な話なのであるが……。


・フィールドこそベストメソッド

ロッドやリ-ルは言うに及ばず、ベストやウエーダー、フライボックスのはてまでブランド品で身をかため、毎日キャスティングの練習に励む。 パターンブックのフライは全て揃えて本は暗記するぐらいに読み返し、いざフィールドへ。

三歩進んでツルリと滑って全身ずぶ濡れ。 あとはフィッシング・エリアで道具を見せびらかすだけのフライマン。 フェルトのソールが付いていれば絶対に滑らないと信じ込んだ結果なのであろうが、雪道でチェーンさえ装備すればスリップしないと思っているドライバーのようなもの。 本に書かれてある事で、どれがいちばん大事なのかはフィールドに通って経験しなければ理解できないのである。


・魚がいなければ釣りは出来ない

フライで魚を釣りたいと思ったら、魚がいる場所に行かなければならない。 あたりまえのことではあるが、実は二年、三年目のフライマンが陥りやすいことである。

ヤマメもイワナもシーズンを通してみると、かなりの距離を移動している。 解禁直後は夏場に鮎が釣れる場所まで下がっているし、北に位置する川ほど下流に移動するので、シーズン初期は海を見ながら釣ることさえあるほど。

初めてロッドを手にした時に連れていってもらった川で、一度でも自分のフライへのライズを経験すれば一生忘れられない場所になるであろう。 ほとんどの場合初心者でもなんとか釣れそうな時期と場所を選んで連れていくことが多いので、 シーズン初期に忘れられない場所に行っても魚はまだいない。 釣れなくてもあたりまえなのだ。 魚が上流に移動した後に入渓しても同し事である。 またフライ・フィッシングはキャスティングが重要とばかり近所の空き地で練習に練習を重ね、雪代と共にヤマメもイワナも遡上して空っぽになったダム湖へ行くのも同じこと。

源流にさえ入れば大物がいる、数が釣れると思い込むのも間違いのもと。 ほとんどの場合源流に入っているのは小型の魚ばかりで、条件のいい場所に入れなかった魚が棲みついているだけ。 秋もかなり遅くなってから大型の魚が遡上してくるが、これは将来のために釣ってはいけない魚である。


・食い気がなければ釣れない

モ-ニング・ライズといっても時期とポイントの状況によって時間が変わる。 フライがかろうじて見える時間までねばって大物をあげたことがあるからといって、ドライでようやく釣れ始めた時期に寒さに震えながらイブニング・ライズまで待っても魚の反応はない。 魚も水の中で震えているはずだ。

天候にも大いに左右される。特に、東北地方特有のヤマセの吹く日は要注意。 たった1日でもシ-ズンが逆戻りする。 こんな日は魚に食い気がないから反応は鈍いし、釣ることも難しい。 地元の釣り人はそのことを知っているので川には入らない。 たまたまそんな日に釣りにやってきて、貸し切りのような川の状況に最初は感激。 そのうちにイライラ……。 あげくのはてに魚がいないの、放流量が少ないのと自分の力量不足をたなにあげ、言い訳を言い出す始末。 もっともっと謙虚になって欲しいものである。 状況をきちんと把握する力がなければ、好釣果にはつながらないのだから……。

(自然倶楽部1990年1月号 44-45P)

イギリスパターンを有効に生かすために2010/05/05 12:40

オリンピックやワールドスキーで活躍しているのはアメリカ、カナダの北米勢、スイス、フランス、オーストリアそれにこの時とばかり活躍する小国リヒテンシュタイン、さらに伝統的にノルディック種目に強い北欧や東欧。 これに対してイギリスの選手が活躍したというニュースはほとんど聞いたことがない。 北米はロッキー山脈、ヨーロッパ勢はアルプス、東欧や北欧は一年の約半分が雪に覆われるという環境があるのに対し、イギリスは国内に高い山が無いからではないかと思う。

日本の緯度でいえばカラフト付近に位置するイギリスであるが、四方を海に囲まれていることと、暖流の影響で冬場はそれほど気温が下がらない。 そのかわり冷たい空気と暖かい海水が出会った時霧を発生する。 霧のロンドンといわれるのはこのためなのである。

霧は雨と違い衣服のすき間から体の中に入り込み急速に体温を奪って行く。 毎年多くの人が霧で命を落としている。 この環境がバーブァのジャケットやオイルドセータを生み出した原因である。 当然フライフィッシングもこの環境を無視して考えることはできない。

羊がのんびりと草をはむ牧場の中を流れる一本の川。 高低差の少ない中を流れる川は鏡の様に静かで所々に木が生えている以外、隠れるものは何もない。 魚に気付かれないよう自分の影を川に写さないでロッドを操り、水面をたたかないようそっとラインを着水させるためのタックルの改良とキャスティングテクニックが必要となったに違いない。 この結果ダブルテーパー(DT)のフライラインが産み出され、正確にポイントに振り込むアクションのロッドが作られたことは自然のなり行きであった。

周囲に木も山もなにも無い開けた場所でフライフィッシングをすれば分かることだが、誠に毛鈎が見えにくい場所である。 毛鈎がどこにあるかを見つけやすくカーフテールやダッククイルのウィングを付けたりリーダーに目印をつけること等。

流れのある川ならこれでもいい。 しかし穏やかな流れの川ではこのような物を付けてしまうと魚に警戒されるだけである。 まして周囲の環境の中に溶け込むように巻き上げられたフライパターンでは、まるで逆効果になってしまうのである。

そこをキャスティングの技術で補うことになる。 もしラインの先に結び付けた毛鈎を目で十分に追うことが出来るスピードでキャスティング出来れば、プレゼンテーションされた位置は確実にわかる。 イギリスのキャスティングは常にこの発想を根底において考えなければ理解出来ない。 アメリカの、それもロッキー山脈の西側を流れる川の釣り方とは対照的とも思えるくらいの違いがある。 この違いが毛鈎のスタイル、ラインの形状そして当然ロッドのアクションの違いになって現われてくる。 では、こんなフライキャスティングテクニックが日本で役に立つのだろうか。 次の事柄は一つの答になるかもしれない。

山形県と秋田県の境にある鳥海山。 急な山肌を流れる川、月光川は、決してスコットランドののどかに羊が遊ぶ牧場を流れる川には程遠い。 雪解けの頃には川幅一杯に濁流が流れ山の土砂を一緒に押し流す暴れ川である。 このため各所にエンテイが作られた。 橋の上から上流を眺めると、ちょうど階段のように下から上へと続いている。 雪代が川幅一杯に流れるので、河原は広く釣り人が隠れる場所はない。 エンテイの間隔が短い場所は雪代が治まってしまうと流れがほとんどなくなり、鏡のような水面になってしまう。 日本海に沈む夕日は、上流に向かって釣り人の長い影を落とし魚を警戒させるので、まことに釣りにくい場所である。 この川に毎日通って27cmから32cmのヤマメを1週間で8匹釣ったフライマンがいた。 4年前の話である。 以下はダイジェストした彼の話。

「梅雨が明けた頃、仕事が終わってから釣り場へ通った。 自宅から15分。 その日によって時間は一定していないがとにかく夕方。 梅雨の雨はすっかり治まり暴れ川の面影もない。 ウェーダをはいて川に立ち込むと魚に警戒されるのでスニーカーで川に通った。 ロッドは8フィート半。 ラインはDT6F。 ウエイトフォワードラインの様にダブルフォールでスピードを付けなくても20ヤード以上楽にラインが出て行く。 DTの特長で距離が伸びると共にループは大きくなる。 しかもDTの強味で最後の最後までラインをコントロールすることが出来る。

伸び切ったリーダーの先に結び付けた毛鈎はイギリスパターンのドライフライで当然アップアイ。 若干重めのフックに巻かれた毛鈎はウイングもマーカーも付いていない。

ヤマメがフライにライズする。 ここで間髪を入れずにあわせなければならないはずであるが、一呼吸置く。 20ヤード以上ラインが出ているのだからいくら早あわせしても無駄である。 水面に不自然な動きを与え魚に警戒心を与えるだけになってしまう。 一呼吸置くことでヤマメが反転した瞬間ラインの重みでフッキングする。 フライマンはそのタイミングを見計らってロッドを持っている手を高く上げるだけでいい。 この釣り方は4番や5番のラインでは重さが不足する。 6番のラインを使っていても距離が短かければ無理だし、リーダーが完全に伸び切るプレゼンテーションが出来なければやはり不可能である。 ラインが出ているだけでリーダは伸び切っていない、水面はたたくという名ばかりのロングキャストでは絶対まねの出来ない、正確なキャスティング・テクニックを要求される釣り方である。 毛鈎は着水した時ヨットの底に着いている大きなオモリが正しい姿勢を保つのと同じ理由で重さのある太いフック。 しかも反転した時にフッキングさせる必要から微妙なひねりの入ったアップアイが必要である。 さらにくわえた瞬間、魚に異物感を極力感じさせないよう、弾力があってしかも柔らかいハックルを寝かせて巻く。 もし硬かったり、あるいは立てて巻いたハックルでは、魚が反転する間に吐き出してしまう。」

以上が本人の話である。 この釣り方がこの時期この川のベストの方法であるかどうかはわからない。 しかし彼が持参してきた8匹の冷凍になったヤマメを前にして反論する言葉は何もなかった。


・アドバイス

DTラインを使いこなすにはDTライン用に作られたロッドを使わなければなりません。 ウエイトフォワード(WF)ライン用に作られたロッドにDTラインを装着した場合15ヤ-ドを越したあたりからロッドの腰が抜けた様な感じにになります。 これはロッドが悪いのではなくてこれ以上の距離はダブルフォールを掛けてWFラインをキャストするようにロッドもラインも設計されているからです。 WFにはWFラインの特徴と良さがあります。 DTラインも同じです。 それぞれのラインの特徴を活かした釣りをしてこそフライフィッシングが楽しくなると思います。 WFで設計されたロッドをDTラインで振ったりDTライン用に作られたロッドにWFラインを装着してダブルフォ-ルがうまく掛けられないと嘆いている人があまりに多いのも確かです。

一度ラインとロッドのマッチングを確かめて見てはいかがでしょうか。

(自然倶楽部1990年4月号 62-63P)

山女魚2010/05/05 12:54

当然と思うかもしれないが大抵の川で雌の山女魚が釣れる。 ところが昔は東北で釣れる山女魚は雄だけだった。 しかしこの話を関東以西の釣人にしても信じてもらえない。 東北と北海道の山女魚だけの話らしい。 その時代に雌の山女魚が釣れようものなら大騒ぎでホルマリン漬けにして保存した所もあるくらい珍しいことだった。 明治とか大正とか、あるいは戦前の話とかではない。 わずか20年少し前までの話である。

山女魚はその名前の通り山奥の魚のように思われるが実は海の魚でもある。 産卵は上流で行われるが、川に残るのは雄だけで雌は海に降ってサクラマスとなって数年後に生まれた川に戻ってくる。 だから釣人が渓流で釣ることが出来る山女魚はほとんどが雄ということになっていた。 今でも放流がされないで自然の状態のまま残っている東北の河川で釣れる山女魚は大部分が雄である。

キャッチアンドリリースをしているから雄雌がわからないと言うのは言い訳にしか過ぎない。 本当に山女魚を守るためキャッチアンドリリースをしているのなら注意深く山女魚を見れば雄雌の区別はつくし、ネイティブかワイルドかあるいは釣る目的で放流された成魚かはわかるのだから。

現在雌の山女魚が釣れるのは、放流の結果である。 あちこちの川にダムや堰堤が出来てサクラマスが上れなくなったので山女魚は激減した。 堰堤に魚道はあるが、ここを上れるのは鮎だけで、よほど水の状態が良くなければサクラマスは上れない。 しかも水道水や工業用水など水需要の増大で中流域の水量が昔に比べて少なくなっているから、魚道を流れる水が極端に少なくなって鮎さえも上りにくくなっている。 親は戻ってこれない、残っているのは雄ばかり、その結果絶滅への道を進むことになる。 戦前にダムが造られた川では以前は山女魚が釣れたが今は居ないと言う話を聞かされた。 ニジマスやブルック(カワマスとその川では呼んでいた。)を放流したがニジマスは自己繁殖出来ず、ブルックは在来の岩魚と混成し雑種不妊のため最終的に絶滅してしまうことが判明してから放流は中止された。 しかし昭和30年代に山女魚の人工孵化に成功したおかげで、あちこちの漁協が山女魚の稚魚を放流した結果、雌の山女魚が釣れることになった。

ただ放流に携わった漁協の関係者から聞いた話では地元の川の魚が親ではなく東京の多摩川水系の山女魚が親になっていると聞かされた。 東北地方のある水産試験場の研究では、日照時間を調整することで山女魚の稚魚が銀毛化するそうだから地元の山女魚を親にしては定着率が悪くなるのかもしれない。

この辺の詳しい事情は専門家にまかせて釣人の立場から見てみると、冬期間はダムで越冬しているらしい。 まだ雪代が出る前にはダムの中でヒットする。 その時に山女魚のままの姿をしているのと銀毛化したサクラマスらしいのとが釣れる。 海から上った魚であるはずはないし型もはるかに小さい。 上流に放流された山女魚の一部がダムの中で銀毛化したのか、それとも在来の山女魚が取り残されたものなのか・・。

途中にダムが無い川では冬期はかなり下流まで降りていて、仙台市内でも、かもめやうみねこの姿が時々見えるくらい下流で3月初めの頃に山女魚が釣れる。 雪代が出ると共に上流に上るが魚道の無い堰堤で魚止めになってしまう。 堰堤の上にも放流はされているが、解禁の頃から4月中頃まで釣れる山女魚に比べ5月下旬頃から釣れ始める育ちのよい山女魚は下流から上ったとしか思えない。

田んぼに水を取り入れるために造られた堰堤があると5月中旬頃から山女魚がよく釣れる場合が多い。 この堰堤はどちらかの端に水門があって、そこから用水堀を通って田んぼへと流れて行く。 田起こしが始まって畔造りが終わる頃には用水堀の落ち葉もきれいに取り除かれて堰堤から水が流れ出す。 今農家の9割位が兼業だそうで、それらの農家が田植えをする時期はまとまって休みがとれるゴールデンウィークに集中する。 数キロ間隔で造られた堰堤から一斉に水が分流し田植えの終わった田んぼに流れ込むから本流の水は少なくなる。 この時期に川へ出かけてみたら、水温も適正、かげろうも飛んでいる、天気も最高の状態でありながらフライへの反応がまるで悪いことに出くわすのは取水のため水の状態が落ち着かないからである。

ゴールデンウィークが終わると田植えも終わるから、川の状態も落ち着いてようやくコンスタントに山女魚が釣れ始める。 この時期冷え込みがあって田植えが遅れると次の土日まで休みがとれないから1週間単位で釣りシーズンもずれることになる。

田植えが終わっても遅霜やヤマセから苗を守るため水管理をしなければならないから用水堀の水はそのまま流れ続ける。 田んぼに引き込む訳ではないから下流のどこかで本流に戻される。 そこを通って山女魚は上流に移動する。 5万分の1の地図はおろか1万分の1の地図にさえ載っていないもう一つの川が存在することになる。

貿易不均衡を和らげるため日本のお米の市場解放が行われた。 数年前のあの不作の年、緊急輸入のまずーい米の味を知っているからすぐに日本の米市場が輸入米で氾濫する心配はないだろうが、お米の大市場である日本向けに「EXPORT EDITION FOR JAPAN」の米が作られるのも時間の問題のような気がする。 その時、山女魚が上る用水堀がまだ残っているかは、わからない。

(釣り東北の別冊「チェイス」掲載)

3年がかりの大物2010/05/05 12:54

彼があの川に通い始めたのはフライを初めてから3シーズン目のことだった。 最初はあの川へ行く予定ではなかった。 山女魚が釣れていると情報を聞きつけすぐに行くつもりが、残業や休日出勤で3週間も経ってしまっていた。 その間に鮎の解禁日を迎え、目指した川のポイントには友釣りの竿が乱立していた。 上流へ逃げることも出来たが、なぜかその気にならず万一に備え出発前に地図で確認しておいたもう一つの川へ向かった。 決して大きな川ではないが、たまにイワナの大物が出るらしいとの情報はあった。 梅雨の最中なので水量は多かったが、それでも小さい川だった。 途中の橋のあたりから河原に降りポイントにフライを送り込むとすぐに15センチ程のイワナが出た。 草や葦が多い河原で釣りやすい川ではなかったが、300メートル程釣り上るとやや広い場所に出た。 向かい岸の淵はいかにも深そうな水色をしていた。  流心の際にフライを落とすつもりがミスキャストで淵の頭にフライが落ちてしまった。 すかさず小さな魚がライズした。 合わせる気はなかったが反射的に手が動きフッキングしてしまった。やれやれと思いながらラインを取り込み始めたその時、淵の中から大きな魚が現われフッキングしている魚にパクリと食いついた。 1月程前のことだが彼は生れて初めて尺イワナを釣っている。 しかし今、目の前にいるやつは遥かに大きかった。 夢中でラインを取り込んだがその先に魚の姿はなかった。

東北に住んでいるフライマンならみんな近所の川に得意のポイントを持っている。 30分以内で行けるから定刻通り会社が終わった日、あるいは遅番で午後から出勤する日など、ちょっと寄れば一つや二つ釣れる場所である。 彼があの大物に出会った場所は、2時間も高速を走り更に1時間と言う程遠い場所ではなかったが、気軽に行ける程近い川でもなかった。

それから彼のあの川へ行く回数が増えた。休み毎ではないが月に2回は通い始めた。 その年は梅雨が明けた途端に例年になく暑い日が続き、ただでさえ小さい川は河原一面葦原になって竿を出せなくなった。 次の年のシーズンが始まり5月の連休が終わるのを待って通い始めたが、この年も手応えはまるでなかった。 彼がフライを初めて5シーズン目の解禁を迎えた。 今年こそはと思いつつ月2回のペースで通い続けたが、あの大物に出会った鮎の解禁の季節を迎えても姿を見せなかった。 禁漁が近づいた頃2年前に比べればやたらと釣り場でフライマンに会うようになったと思いつつ又あの川へと向かった。 いつもの橋の所から川に降り大物に出会った広い淵まで釣り上ったが、出たのは小さなイワナが3匹だった。 今日は少し粘ろうかと思った頃カタログから抜け出たような連中が下から上がってきた。 彼の太めの竿と明らかにその連中より大きなフライを見て「釣れないでしょう」と声をかけてきた。 腹も減っていたし午後のライズが始まるには相当時間があるので「ええ」と瞹昧な返事をしてその場を立ち去ることにした。 おそらくその連中には田舎のレベルの低いフライマンとしか見えなかったかもしれない。 川の上で竿をしまいながら見ていたら、あの狭い川でダブルフォールをかけまくり、持て余し気味のロングリーダを草にからませ悪戦苦闘していた。 近くのドライブインで朝昼兼用のめしを食べ終わってから車の中で仮眠をとった。 3時頃に目を覚まし現場に戻った時にはだれもいなかった。

あの時と同じように小さな魚がフッキングしてそれに食いつくことは無いだろうからと8番のマドラミノーをリーダに結びポイントにキャストした。 昨日の雨のせいで濁りの入った水が、淵の所で少し薄くなったように感じた瞬間、スッとフライが見えなくなった。

(「釣り東北」未掲載原稿)

DTとWF2010/05/05 12:55

フライラインにはWFと表示しているウェイトフォワードラインとDTと表示しているダブルテーパーラインがある。 この違いを説明している本は沢山あるが、ほとんどがラインの説明書の訳文程度でしかない。 DTラインは両側にテーパーがついているから裏返して使えるとかWFラインは遠投用だとかいわれているが、これではごく一部しか表現していないことになる。

石を投げると大きい石より小さい石のほうが遠くに飛ぶ。 これはスピードが早いからに他ならない。 投げ出す瞬間のスピードのことを初速と言う。 初速が同じなら石は大きくても小さくても同じ距離まで飛んで行く。 そして物が動くとエネルギーを持つ。 速度が同じなら大きい石のほうが、スピードが早ければ小さい石でもエネルギーは大きくなる。

車の免許の書き換え講習で、事故を起こした場合時速30キロより60キロで走っている車のほうが遥かに大きな事故になると説明を受けるが、これと同じことである。 ルアーフィッシングあるいは投げ釣りなどは錘が糸をひっぱって飛んで行く。 ところがフライラインが飛んで行く場合は少し様子が違う。 蛍の光が流れドラの音と共に出航する船のデッキから投げ出されるテープが飛ぶのと様子がよく似ている。 一端は固定されていて反対側がほどけて飛んで行く。 必要なだけの初速で投げれば初めは沢山巻いてあるテープが、だんだん少なくなり最後まで出し切ることができる。

フライラインの場合は一振り一振りがテープの場合と同じである。 短い距離では初速を押えて竿を振るし、少し初速を上げればラインを引き出しながら、ほどけるようにU字型のループを描いて延びて行く。 DTラインならこの動作を繰り返せばロッドの長さに見合った距離までキャストできる。 ところがWFラインの場合は少し様子が変わってくる。 先端から大体13ヤード位まではDTラインとほぼ同じであるが後はランニングラインと呼ばれる細いラインである。 したがってこれ以上ラインを出したければランニングラインの手前で初速を上げて残りのラインを引き出すようなキャストをしなければならない。 竿には長さ、材質等で決まる固有の振動周期があって、この周期に合わせて竿を振ることで小さな力で大きな反発力を出せる。 これを無視して思いっきり速く竿を振っても初速は上がるが、竿の周期にあっていないからかなりの腕力がいる。WFラインを楽にキャストするには竿の反発力を最大限に利用しながら初速を上げる方法が必要になる。

人が50キロで走っている電車の中を進行方向に10キロで走れば、結果的に人は60キロで走っていることになる。 これと同様に竿が振られている方向にラインのスピードを加えれば初速が上がる。 これがフォールである。 フォワードキャストとバックキャストにそれぞれフォールをかければダブルフォールになる。 だからWFラインでは13ヤード以上のキャストをする場合フォールは絶対必要になる。 そして正確なフォールが出来た時、結果的にループは狭くなる。 ループの出来始めとフォールのラインの引き終わりが正確に一致しないと初速を上げられない。 タイミングが合わず何度もフォールを繰り返して「ラインスピードを『加速』してキャストしなければ遠くに飛ばない」と言うのは勘違いもはなはだしい。 『加速』とはスタートしてから自分自身でスピードを上げる場合をいい、ちなみにロケットを打ち上げる場合の初速は「0」である。

DTラインとWFラインではロッドの設計が根本的に違う。 ところがロッドに表記してあるのは長さと番手だけで、DTかWFかの違いは明記されていない。

DTラインはテーパー部分が終われば後は一定の太さになるから距離が伸びるにしたがって重さが加わる。 ロッドはそれに耐えなければならないから太いバットが必要になる。 更に元ガイドの位置がDTライン用のロッドはWFライン用に造られたロッドに比べてグリップ寄りの場所に取り付けられている。 8フィートのロッドで20センチ以上も取り付け位置が違うし、バットの太さも表記している番手が同じであるにもかかわらず、一目で違いが判るほど差がある。 それぞれのロッドに違うラインをセットすると、DT用のロッドにWFラインをセットするとフォールをかけても充分な反発力が発揮出来ないから効果の程が出てこない。 WF用のロッドにDTラインをセットすると14ヤード位までは問題無いが、そこから先はロッドがラインの重量を支え切れなくなって腰抜け状態になる。 でも渓流でフライフィッシングをするならWF用のロッドにDTラインをセットしていても何ら問題は無いし万一ライントラブルがあった場合裏返して使うことを考えれば、それも一理ある。 理解して使っていれば何ら問題は無いが、初めてフライをやる人はラインを傷つける場合が多いので黙ってDTラインをセットされてしまうことが多々ある。 練習してある程度キャストが出来るようになった時WFラインに出会うと元々WF用に造られたロッドならフォールをかけなくても、そこそこラインが出て行く。 このことがWFラインは遠投用のラインと誤解される原因になる。

現在キャスティングに関する本は沢山出ているが、WFラインの説明が多くDTラインに関してはほとんど無い。 それも当然で今入手出来るロッドの大多数はWFライン用に設計されたロッドである。 DTライン用に製造されたロッドにDTラインをセットしている人は次の点に注意してほしい。 WFラインはランニングラインが出た状態では一度ラインをリトリーブしなければ次のプレゼンテーションが出来ないが、DTラインの場合は30ヤード近くラインが出ていてもバックキャストが可能である。 ロッドもそれに耐えられるように出来ている。 しかし表面張力で水面のラインは大きな力で押えられているから、いくらDT用に造られたロッドでもそのままピックアップすることは無理である。 そこでロールキャストでラインを浮き上げてからピックアップをするテクニックが必要になる。

広い川のやや流れが緩い場所で水面に波紋だけが出てジャンプを伴わない「リングオブライズ」に出会った時、水面ぎりぎりにラインのスピードを殺し切った状態で正確にフライをプレゼンテーション出来るDTラインは最適なラインである。 そして魚がフライを喰わえた瞬間、ラインの重さを利用してフッキングさせられるようになればDTラインを充分に使いこなせたことになる。

最近湖などで使う人が増えてきたツーハンドロッドは購入時にシューティング用かDTライン用かを確認しておかなければならない。 アメリカ製のロッドは、ほとんどがWFライン用であるが、ツーハンドではDTライン用のロッドがあるからである。 ただしシングルハンドロッドと違って、こちらにはスペイキャスト或いはスペイロッドとカタログか本体に明記してある。 ツーハンドロッドは40ヤードのDTラインを一振りでキャスト出来るダイナミックなロッドであるが、必ずロールキャストでピックアップをしないとバットを折損してしまう。

(「釣り東北」未掲載原稿)

ある釣り職人の家系と歴史 ハウス オブ ハーディー2010/05/05 13:18

1932年、世界の経済恐慌が当時優位を誇っていた英国にも押し寄せ、飢餓に苦しむ人々がロンドンなどの都市に溢れていた。 政府は軍事費を削減して福祉政策に努めたが、海軍部内などでは一部で反乱を生む結果ともなっていた。
第二次労働党内閣は財政上の問題と共に、絶対多数の勢力はなく、党首ラムジーマクドナルドは労働党と保守党の挙国連合内閣を組織せざるを得ない不安の情勢だった。

この様な世相の中でも上流階級を顧客とするハーディー一族の商売には影響もなく、ロンドンの店には毎日ロールスロイスで乗り付ける顧客への対応に追われて居た。 特にフライフィッシングは上流社会のシンボル的なスポーツとされた時代であり、活況を呈していた。
イングランドの北、アーニックの町は北海の気候をまともに受ける地で、朝夕はめっきり冷え込む。 J.J.ハーディーは毎日の日課で1‐2階の仕事場を一巡すると既に社長職を譲ったローレンスの部屋を訪れ、日課となった釣りの話をし、ギリー(釣りの付き人)を待った。 社業は順調に推移していたが伴侶に恵まれなかった彼にとって老いとともに、フライフィッシングは最愛のものとなっていた。 その日はサーモンフィッシングを予定して、久し振りに16フィートのロッドを用意した。 長兄のウイリアムは既に地に帰って5年を過ぎていたが、彼との釣行では必ず使っていたパラコナであったが、年を経て16フィートは重量があり、最近は使っていないロッドであったが、今日はどうしてもこのロッドでコケット河の大物を狙おうと心に決めていた。

ギリーの馬車が来て、釣り具を積み込み工場から約3マイル離れたコケット河に向かったのはかげろうの楳な北イングランドの太陽が真上になってからで、釣りは午後から夕暮れを狙っての釣行であった。

ノーザンバーランド公の居城があるアーニックの町には小さな凱旋門(ボンドゲート)があり、町の入口にもなっていた。 つまりこの門の中はボンドゲートインと呼ばれる城下町を形勢し、ハーディーの工場もその一角を占めていた。 アーニック城は現在でも英国国内にある居城としては三番目の規模を誇るもので、アルン川が敷地内を流れている。 1174年にはイングランドとスコットランド戦の激戦の場となったところでもある。
後年、イングランド軍が優勢に点じてスコットランドの敗退におわるが、城の規模に対して兵員の数がすくないこの城は戦さの後、城壁上に多数の兵士をかたどった人形を配し、あたかも多数の兵士が防御しているかに見せた。 現在でも多くの名残りの兵士人形が点在している。 実際に1639‐40年の宗教戦争の際、スコットランド軍はアーニックを避けて南下、ニューカッスルに攻め込んだ。 チャールス1世率いるイングランド軍は人形兵士に助けられ、アーニックを足場に北上したのである。
J.J.ハーディーはボンドゲートアウトにある第一次世界大戦の戦没者忠魂塔にくると馬車から降りて、パーシー(ノーザンバーランド県の別称)のシンボルであるライオン像を見上げ、しばしの祈りを捧げた。 工場の職人数名の名が刻まれたプレートに目を移すと、グリーンハートを懸命に削っていた顔、ぶつぶつ独り言をいいながらパーフェクトのギヤを仕上げていた姿を思い出す。 戦場に送り出した時の事、ふ報を知らされた夜のショック、未亡人となった人達をハーディーが雇用してガット(てぐす)加工をしてもらっている事など、いつになく色々な事を思い出していた。
忠魂塔の前にはジョージ5世の後援で作られた職工学校があり、J.J.ハーディーも関与していた。 当時英国政府は地方における実技教育を推進し、アーニックにもその制度がもたらされた。 近郊から生徒を公募し多職種の職人養成を行っていた。 ハーディー社はこの事業に協力、貢献すると共に卒業生を採用している。

昼近くコケット河のいつものビートに落ち着くと、ギリーが準備を了えるまでの間、川面をみつめた。 時折サーモンの背ひれがスーと川面を切る、まあそうあわてなさんな、今行くから。 石橋の下を抜けてくる風が背中からに変わるのを見計らってまず一投、16フィートで送り出すウィリーガンは風に乗ってポイントに当然のごとく着水、流れに乗る。 いつの間にかまた風が石橋から吹き出してきて、スペイキャストのやり直し。 気温も下がってきてギリーが昼食の支度に馬車に戻った。 ひとり者なのでいつもの事だが町のホテルにバスケットランチを用意させて、ギリーが迎えに来る途中で馬車に積み込んでくる。 また相変わらずのコールドローストラムかなと思っていると、鋭い当たりが来た。 まだ合わせには早い、もうひと呼吸と川面を見据えるとサーモンが軽くジャンプし、消えた。 一瞬遅かった合わせがサーモンにチャンスを与えた。 フライを確認しようとラインを巻き上げだした途端、胸に激痛が走った、心臓発作が彼を襲った、竿尻を芝に突き剌す様にしてロッドを握り締めたが、目の前が白くなってゆく。 耳鳴りがしてきてギリーを呼ぽうとしたが声にならない。 かすかに川面でサーモンが又跳ねる音を確かめるすべもなく、生涯最後の釣りが終わった。

1872年アーニックの片隅で産声をあげたハーディー兄弟商会の創始者ジョン ジェームス ハーディーの終えんは誰ひとりも看取る事なく迎えたが、最愛の釣りの最中、サーモン、好きだったコケット河、自身で仕上げた釣り具に囲まれての大往生であった。 自らメーカーであり、キャスターであり、そしてフライフィッシングの布教者でもあった50年、そしてハーディーファミリーのその後の発展など、英国の誇る世界の釣り具業者としての歴史はすべてJ.J.ハーディーが基盤となって今日に至っているのである。

ハウス オブ ハーディーを愛する人々(抜粋)2010/05/05 13:19

1872年の創業以来、ハーディーの顧客には多くのハイソサエティーの人々がおり、ロンドン店には世界中からの来客で賑わう。

英国王室とも関係が深く、ジョージ5世をはじめ三代にわたる英国皇太子のご用達を受けている。 1937年にはバッキンガム宮殿の人形館にミニチュアのパラコナフライロッドが献上され、現在でも人形館に展示されている。
現在のエリザベス女王殿下の母、クイーンメリーもハーディーの愛用者で80才の誕生日は釣り場でもお祝いが行われた程。 今はなくなったが、第2次大戦前はスペイン、イタリアなどの王室のご用達もつとめた。
文壇では特に有名なのがザーングレイとヘミングウエーの2人、ザーングレーはハーディーの工場に乗り込んで初代のJ.J.ハーディーとトローリングリールを開発した。
1936年には1,000ポンドを越すブルーマーリンを釣果を記録した最初のトローリングリールである。 後年、彼の名前を冠したハーデイートローリングリールは今でも受注生産している世界一高額のリールである。
ヘミングウエーは鱒釣りの道具はすべてハーディーを指定していたのは有名で、ハンドメイドのロッドの愛用者であったが、ある時コレクションのすべての鱒釣り道具が盗まれた。 凝り性の性格からその日以来、ヘミングウエーは2度と川釣りには戻らなかったと息子が口述している。 以来彼は川釣りから海の大物釣りがスタートした。

英国王室に戻るが、シンブソン夫人と恋に落ちたエドワード8世はフランスに住む様になってもハーディーの製品を愛用された。 また皇太子時代、日本の昭和天皇(当時は皇太子)が最初の英国訪問をされ、お二人でスコットランドでサーモン釣りを楽しまれたが、お世話をしたのが当時のJ.J.ハーディーで、当然ハーディー製品が使用された。 洋式フライフィッシングを楽しまれた日本人は他ならぬ先代の天皇陛下かも知れぬ。 現在の徳仁皇太子もエジンバラ公よりオックスフォード在学中、何度も釣りを楽しまれており、当然ハーデイー製品を使用されている筈。

モダンジャズの巨匠のひとり、カナダ生まれのオスカーピーターソンも熱心なフライフィッシングの愛好者でロンドンPall Mall店の顧客。 ロンドン公演の際には必ず店を訪れ、釣り場や状態を調べて余暇をイングランドで釣りを楽しむ。 ドイツの元首相のブラント氏もハーディーでフライキャスティングの指導を受けて、以来ハーディーの愛好者である。

6月と1月の2回英国全土でセールと称する安売りの季節があり、ハロッズから駅前土産店までこぞって安売りの行うのが習わしであるが、ハーディーを含めて王室ご用遠の一部の店では未だにセールを行わない。 世界のハイソサエティの人々が使用しているものが、一時的にせよ安売りの対象にするのは無礼との判断からだ。

英国の影響を深く受けているインドでも高地では清流での鱒釣りなどが楽しめる。 高位のマハラジャもハーディーの顧客であるが、ロンドン店ではほとんど顧客名が記録されていない。 国情なのか習慣なのかいずれにしてもハーディー顧客はインドにも及ぶ。

(文責 HOUSE OF HARDY在日代理店株式会社アングラーズリサーチ(当時))

HARDY BROTHERS 第2次世界大戦の前後の変遷2010/05/05 13:20

1940年、二代目社長ローレンス R.ハーディー及びフレッド、アレンは次第に入手難になってきた素材の確保に追われる様になった。 まず日本からのガット素材や絹糸の入荷が停止した。 さらに鋼材の入荷が著しく厳しい状態にせまられ、またアルミニューム素材は軍用機などの軍需産業に優先される事になっていった。

1942年に入ると、さらに素材供給が枯渇し工場の一部の操業停止に追い込まれる結果となった。 WILLIAM,JIMの両名は相次いで召集され、戦地へと赴いた。 後にWILLIAMはドイツ軍の捕虜となり、終戦まぎわの解放まで帰国出来なかった。

1942年の秋、ドイツ軍のロンドン爆撃により、PALL MALLの店舗が破壊され、シティー店のみの営業となったが、それでもジョンブル精神果敢な英国人は週末の釣りを楽しむ為か、顧客は戦火をのがれて店に訪れた。 しかしほとんどのリールは底をついており需要に応じ切れなかったという。
ローレンスは、この窮状をしのぐ手段として以前より広告や、技術交換などで交流があったロールスロイス社に応援を仰ぎ、HARDYの旋盤技術を生かして、同社の下請け作業に従事することになった。 当時ロールスロイス社は軍用機のエンジンなどの生産をおこなっていた関係で、必要部品などの製造にHARDYの応援は納期を短縮出来、終戦までこの関係が継続された。 ただロールスロイス社の事情で、この関係は公表はされていない。

1945年春、欧州戦線はほぼ終戦を迎えドイツ軍の崩壊とともに、多くの将兵が復員し、HARDYの工場も落ち着きを取り戻すが、あいかわらず素材供給の道が見当たらず、一時は開店休業の状態となった。 幸いに米国で開発されたナイロンにより絹糸にかわるガットの生産や、アルミニュームの代用としてエボナイトなどを素材にしたフライボックスなどが生産される事になった。 パラコナについては、戦前の素材確保により戦後も製造の再開が出来たが、1960年代後半から素材の確保がベトナム戦争の為難しくなっていく。 1951年のPALL MALL店の再開により、HARDYは戦後の時代を迎えるが、米国などでは既にグラスファイバーロッドが大きく展開しており、自社製造製品だけでの商売は次第に難しくなり、小売店として他社ブランドをふくめた総合釣り具店に変化を遂げていく。 WILLIAMは復員後、既に老齢となってきたローレンスを助けて副社長として采配をふるう事となり、JAMESはマーケッテイングと技術担当重役に就任する。 甥のフランクも同社の重役として就任し、HARDY一族3代目を形成してゆく事となる。

日本における最古のHARDYの代理店2010/05/05 13:21

1937年版のHARDY'S ANGLING GUIDEに見られる日本、中国および極東の代理店として下記の社名と住所が記載されている。

 神戸市神戸海岸通り1 W.M.STRACHAN & CO(AGENCIES)LTD.
 担当者:J.E.MOSS

HARDYでは1800年の終わり頃から、自社製造によるリーダーや、ティペット付きフライの製造を本格化しており、当初はガット素材としてスペインなどから購入していた。 しかし、事業の拡大からシルク素材を採用する事となり、日本から絹の大量購入計画が生まれ、日本との取引先として、同社が選ばれた。

1920年頃からシルクフライラインの製造、さらにシルクを素材としたスピニングラインなどの購入を同社を通じて行うとともに1940年の第2次世界大戦直前まで相当量を購入した。 しかし、日本の代理店を通じてHARDY製品の日本への納入はほとんどHARDY社の記録にはなく、同社はほぼ輸出の為の代理店として存在した様子である。

JIM HARDYの推測では、極東つまり中国、日本などは英国人として当時とらえていたのはすべてまとめての視野であったので、国名表示も適当に表記したのではないかとの事である。

また、戦前に日光中禅寺湖畔に作られた東京フィッシング&ハンティング倶楽部のハンター氏のHARDY製品の所蔵は、本人が直接英国から持ち込んだもので、代理店を経由しての所有ではないとされている。 ただ同氏も貿易商であり、神戸に事務所が存在した事を考慮すると、同代理店を経由して購入した製品も含まれていても不思議ではない。 ちなみに当時、中禅寺湖畔にあったフランス大使館別荘などで使用された釣り具のほとんどは、外交官が自分で赴任の際に持ち込んだもので、当時日本において彼らを満足させられる洋式釣り具は日本には存在しなかった。

東京において当時、これらの商品を英国などから輸入したとすれば2-3の貿易商社で白州次郎氏などが経営していた会社があげられる。 これは元モーガン銀行に勤務していた樺山氏などから得た情報であるが、すでに故人で事実関係が確認出来ない。

戦後の代理店は、栄通商株式会社(大阪)、DODWELL&CO.,(東京)、株式会社スバンを経由後1976-1994の間株式会社アングラーズリサーチ(干葉)である。