ある釣り職人の家系と歴史 ハウス オブ ハーディー2010/05/05 13:18

1932年、世界の経済恐慌が当時優位を誇っていた英国にも押し寄せ、飢餓に苦しむ人々がロンドンなどの都市に溢れていた。 政府は軍事費を削減して福祉政策に努めたが、海軍部内などでは一部で反乱を生む結果ともなっていた。
第二次労働党内閣は財政上の問題と共に、絶対多数の勢力はなく、党首ラムジーマクドナルドは労働党と保守党の挙国連合内閣を組織せざるを得ない不安の情勢だった。

この様な世相の中でも上流階級を顧客とするハーディー一族の商売には影響もなく、ロンドンの店には毎日ロールスロイスで乗り付ける顧客への対応に追われて居た。 特にフライフィッシングは上流社会のシンボル的なスポーツとされた時代であり、活況を呈していた。
イングランドの北、アーニックの町は北海の気候をまともに受ける地で、朝夕はめっきり冷え込む。 J.J.ハーディーは毎日の日課で1‐2階の仕事場を一巡すると既に社長職を譲ったローレンスの部屋を訪れ、日課となった釣りの話をし、ギリー(釣りの付き人)を待った。 社業は順調に推移していたが伴侶に恵まれなかった彼にとって老いとともに、フライフィッシングは最愛のものとなっていた。 その日はサーモンフィッシングを予定して、久し振りに16フィートのロッドを用意した。 長兄のウイリアムは既に地に帰って5年を過ぎていたが、彼との釣行では必ず使っていたパラコナであったが、年を経て16フィートは重量があり、最近は使っていないロッドであったが、今日はどうしてもこのロッドでコケット河の大物を狙おうと心に決めていた。

ギリーの馬車が来て、釣り具を積み込み工場から約3マイル離れたコケット河に向かったのはかげろうの楳な北イングランドの太陽が真上になってからで、釣りは午後から夕暮れを狙っての釣行であった。

ノーザンバーランド公の居城があるアーニックの町には小さな凱旋門(ボンドゲート)があり、町の入口にもなっていた。 つまりこの門の中はボンドゲートインと呼ばれる城下町を形勢し、ハーディーの工場もその一角を占めていた。 アーニック城は現在でも英国国内にある居城としては三番目の規模を誇るもので、アルン川が敷地内を流れている。 1174年にはイングランドとスコットランド戦の激戦の場となったところでもある。
後年、イングランド軍が優勢に点じてスコットランドの敗退におわるが、城の規模に対して兵員の数がすくないこの城は戦さの後、城壁上に多数の兵士をかたどった人形を配し、あたかも多数の兵士が防御しているかに見せた。 現在でも多くの名残りの兵士人形が点在している。 実際に1639‐40年の宗教戦争の際、スコットランド軍はアーニックを避けて南下、ニューカッスルに攻め込んだ。 チャールス1世率いるイングランド軍は人形兵士に助けられ、アーニックを足場に北上したのである。
J.J.ハーディーはボンドゲートアウトにある第一次世界大戦の戦没者忠魂塔にくると馬車から降りて、パーシー(ノーザンバーランド県の別称)のシンボルであるライオン像を見上げ、しばしの祈りを捧げた。 工場の職人数名の名が刻まれたプレートに目を移すと、グリーンハートを懸命に削っていた顔、ぶつぶつ独り言をいいながらパーフェクトのギヤを仕上げていた姿を思い出す。 戦場に送り出した時の事、ふ報を知らされた夜のショック、未亡人となった人達をハーディーが雇用してガット(てぐす)加工をしてもらっている事など、いつになく色々な事を思い出していた。
忠魂塔の前にはジョージ5世の後援で作られた職工学校があり、J.J.ハーディーも関与していた。 当時英国政府は地方における実技教育を推進し、アーニックにもその制度がもたらされた。 近郊から生徒を公募し多職種の職人養成を行っていた。 ハーディー社はこの事業に協力、貢献すると共に卒業生を採用している。

昼近くコケット河のいつものビートに落ち着くと、ギリーが準備を了えるまでの間、川面をみつめた。 時折サーモンの背ひれがスーと川面を切る、まあそうあわてなさんな、今行くから。 石橋の下を抜けてくる風が背中からに変わるのを見計らってまず一投、16フィートで送り出すウィリーガンは風に乗ってポイントに当然のごとく着水、流れに乗る。 いつの間にかまた風が石橋から吹き出してきて、スペイキャストのやり直し。 気温も下がってきてギリーが昼食の支度に馬車に戻った。 ひとり者なのでいつもの事だが町のホテルにバスケットランチを用意させて、ギリーが迎えに来る途中で馬車に積み込んでくる。 また相変わらずのコールドローストラムかなと思っていると、鋭い当たりが来た。 まだ合わせには早い、もうひと呼吸と川面を見据えるとサーモンが軽くジャンプし、消えた。 一瞬遅かった合わせがサーモンにチャンスを与えた。 フライを確認しようとラインを巻き上げだした途端、胸に激痛が走った、心臓発作が彼を襲った、竿尻を芝に突き剌す様にしてロッドを握り締めたが、目の前が白くなってゆく。 耳鳴りがしてきてギリーを呼ぽうとしたが声にならない。 かすかに川面でサーモンが又跳ねる音を確かめるすべもなく、生涯最後の釣りが終わった。

1872年アーニックの片隅で産声をあげたハーディー兄弟商会の創始者ジョン ジェームス ハーディーの終えんは誰ひとりも看取る事なく迎えたが、最愛の釣りの最中、サーモン、好きだったコケット河、自身で仕上げた釣り具に囲まれての大往生であった。 自らメーカーであり、キャスターであり、そしてフライフィッシングの布教者でもあった50年、そしてハーディーファミリーのその後の発展など、英国の誇る世界の釣り具業者としての歴史はすべてJ.J.ハーディーが基盤となって今日に至っているのである。

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