一流ブランド物語 HARDY(ハーディー)2010/05/05 13:22

魚釣りの聖書、アイザック・ウォルトンの「釣魚大全」をひもとくまでもなく、フィッシングの正統、いや釣りのなかの正統派といっても決して過言ではないフライフィッシングは、莫国紳士の伝統ある釣り方である。 もちろん日本でもてんから釣りやアユのドブ釣りといった日本独特の毛バリ釣りがあるが、それはさておき、世界のフライフィッシングといえば、英国紳士によって完成されたかなりテクニックを要するスポーツフィッシングである。 それはエサ釣りとちがって昆虫に似せた毛バリを生きているようにキャスティングして魚を誘う、釣り人にもハンディーを負わせた釣り方である。

英国北部の小さな町、アーンウィックに名の知られた鉄砲メーカーがあった。 1872年、その鉄砲づくりのかたわら釣具をつくりはじめる。 ハーディー・ブラザーズ社は以来100年以上にわたって世界の釣具のスペシャリストとして、フライフィッシングの歴史をつくってきた老舗として知られている。

ハーディーといえば、まず竹竿。 1881年、トンキンバンブーを使ったフライロッドがはじめて博覧会に出展、ゴールドメダルを受ける。 以来初代のウィリアムとジョン・ジェームス・ハーディー兄弟のつくり出すロッドは、毎回ゴールドメダリストとしてヨーロッパ中に知れわたってゆくのである。

さらに2代目ローレンス・ロバート・ハーディーは六角竿の加工に機械を導入し、製品の品質性能をより高度にしていった。 バンブーロッドに冠されている名称に「パラコナ」がある。 これはハーディー社の商標であるが、一時竹竿を称してパラコナロッドといわれたほどであった。

余談めくが、バンブーロッドに使われる竹は、中国海南省に群生するトンキンバンブーを使っている。 この地方は1年中強い風が吹いており、この風が、密な繊維と強靭な弾力性をもったねばり強い竹に成長させている。 ハーディー社は広州交易会を通じて、このトンキンバンブーを大量に買いつけ、さらにこれを厳選して製品化している。

ナチユラルケーンロッドと呼ばれるハーディーのパラコナロッドが生まれるまでには、約10年はかかる。 供給された素材を自然に乾燥させるのに8年~10年、その後、約40日を要してロッドに仕上げられる。 すべて手づくりで一本一本仕上げられてゆく。 三角型に割った竹を6枚貼りあわせて六角型をつくりだす。 接着後の乾燥はムロに入れられ、60ワットの電球ひとつの熱で時間をかけて行なわれる。 度かさなる検査、最後の仕上げまですべてゆっくりムード。 一本ごとに書かれるロッド銘も手書きである。 近年、グラスファイバーや、カーボン・グラファイトのロッドが全盛であるが、100年を越える伝統につちかわれたハーディーのバンブーロッドの魅力は不変である。

また、フライリールについても、世界一と自他ともに認めるもので、数多い種類、世界の他社ロッドにフィットするリールとして他のロッドメーカーが純正リールとして採用しているほどである。 このリールは英国デザインセンターに永久保存品として納められており、他社リールのプロトタイプになっている。

また、ハーディー社は、1899年以来ロンドンに小売部を開設、世界のフライマンのメッカとしてにぎわっている。 この店では、1908年からキャスティングスクールを開設しており、2代目教授である現任者のジョニー・ローガン氏はチャールズ皇太子に釣りを伝授した人でもある。

ハーディー社は1931年、プリンス・オブ・ウェールズより「メーカー・オブ・フィッシング・タックル」の称号を授けられており、ジョージ五世、キング・アルフォンソ、キング・オブ・イタリア、プリンス・アクセル(デンマーク)さらに、チャールズ皇太子の釣具のご用達をしている。

現在、城の中にフライを配したシンボルマークが使われているが、この城は本社のあるアーンウィックのノーザンバーランド公の古城である。

HARDY BROTHERSの支店とカタログ、商標などの変遷2010/05/05 13:22

【カタログと商標】

創業当初からJ.J.HARDYは通信販売を重要視していたため創業時からカタログを重視、エジンバラーロンドン間の鉄道の整備、そして駅馬車の地方サービスなどを利用しての輸送を配慮し1937年には55版のカタログを刊行するに至った。 この年は2回目の英国皇太子のご用達であったが、その皇太子がジョージ5世として、王位についた記念の年で、ハーディーではこの祝賀として55版の一部は、祝意を表す表紙に変更した。

1942年ロンドンのPALL MALL店がドイツ軍の空襲により破壊、休業となりシティーのロイヤルエクスチェンジ店(旧市内)で細々と営業を継続する。 カタログの発行も戦前戦後の間毎年は発行出来ず、1956年に62版を刊行し戦後の毎年発行に戻った。 1951年PALL MALL店は営業に再開にこぎつけるがカタログまでは完璧に復旧出来なかった。 1968年に現在の商標である城枠のなかにフライをおいたものが採用され、旧商標のロッドを握るものは廃止された。 ただサブ商標として使われていた楕円形のなかに HARDY, ALNWICK とかかれたものは商品の一部に引き続き使用された。
1987年頃から、商標のマイナーチェンジが行われ、長方形のなかに城とフライのマークがおかれ、周囲をフライが囲むものに変更されたが、基本は同じ。 ただ色彩が加わり公式には ROYAL NAVY(紺色) をベースに商標などを GOLD MOTIF(金色) で表示する様に変更された。(単色の場合は白抜き)
カタログはその後、1966年-1971年は変形B5サイズで発行されたが、名称はANGLER'S GUIDEではなく ANGLERS CATALOGUE となった。 1971からは現在のA4版として定着したが昔の面影を残さないものとなった。 HARDYカタログは1980年末から経営者が変わった為に、定期的な発行が行われなくなった。 1992年を最後に過去2年余新カタログは発行されなかったが1995年3月最新版が刊行された。

【小売部一支店】

1930年頃までに英国国内に6店舗を持ち、直接顧客に製品の販売を展開するとともに、現在のプロショップ制度に似たハーディーの販売ネットを国内に整備し、英国内の主要都市でHARDY製品が販売出来る事になった。 また直営6店舗ではロッドのオーダーメイドの引き受けを行った。

61 PALL MALL 店
現在唯一残っているロンドンの小売部、セントジェームス宮殿の正面にある(注:2006年現在撤退した模様)。 本来この店は貴族、王室関係者のご用達として設置したが、外交官などの口伝えで外国の名士やマハラジャなどが顧客となった。 ヘミングウェー、ザーングレイなどの文士もこの店の常連であった。 現在でも公爵、子爵などが時折来店される。 終戦後、ビルの復興が行われ1951年4月4日に業務を再開した。

CASTING SCHOOL OF LONDON と呼ばれる釣りの個人教授は1928年 MR.F.TILTON がウインブルドン公園で行っていたものを、ハーディーが専属契約をし、始まった。 その後1930年代半ばから、担当者としてCAPTAIN EDWARDSを迎え、場所もHARDYの本社があるALNWICKの領主であるDUKE OF NORTHUMBERLAND(ノーザンバーランド公爵)のロンドンの館があるSYON PARKに場所を移した。 公爵は二代にわたり、HARDY BROTHERS社を評価し、地場産業の育成のため多くの助力を惜しまなかった、ゆえにこの関係が新しい商標にみられる通り城内のフライとなった。 ノーザンバーランド公爵の城内のフライはHARDYを意味するものである。
エドワードは多才の持ち主であり、航空機の操縦を始め、ダイムラーのテストドライバーとしても著名で、さらに多くの釣りトーナメントのチャンピオンの名声をほしいままにした人で、晩年まで多くの世界の人々にフライフィッシングを伝授した。
1960年代の半ばに3代目の教授として、エドワードの愛弟子であるJOHNNIE W. LOGANがその後を引き継いだ。 ジョニーはエドワードの技能に傾倒しており、彼の技術を見事に継承したと言われている。 またジョニーは在職時代には多くのハーディー製品のフィールドテスターとしても活躍している。
受講者や一般には CASTING SCHOOL OF LONDON はHARDY社の運営と思っている人がほとんどであるが、エドワードやローガンはHARDYの社員でも嘱託でもない。 HARDYと彼らは専属契約をなしたいうなればテナントの様な関係でむすばれていたのである。
勿論、授業の為の釣り具などの提供はHARDYが行っていたが、自己用釣り具については個人購入をしていたのである。

戦前からの銃砲部門も1970年代までは、継続していた。 グループのなかにはチャーチル銃があり、またグラントなども関与していた。 戦前にはウインチェスターなども手広く扱ってきた関係でPALL MALL店は銃砲ファンも多くあった。 しかし銃砲の事業は次第に衰退し、グループの銃砲部門は、チャーチル、アトキン、グラント、ラングの4社を統合し再建を図ったが成功には至らず80年代全般でPALL MALLから撤退した。
1970/1980年代までは、勤続30年余の店員を有する店で、ALAN VARE, TIM STOOPなど経験豊かな支配人が店を管理してきたが、近年はほとんど古い店員もおらず、顧客を見分けるものがいなくなってしまっている事は残念である。

12 ROYAL EXCHANGE(戦後は 81 CANNON STREET に移転)
シティーと呼ばれる高級階級や、金融筋の人々を相手として、営業を行ってきたが、HARRIS&SHELDONグループにHARDYを売却事閉鎖された。 この店の特徴は早くから贈答品としての釣り具が多くハイソサエティーの人々が、クリスマスや退職記念品などに釣り具を利用しており、景気に左右される典型的な店舗であった。

37 GEORGE STREET, EDINGURGH
スコットランドのエジンバラ市の目抜き通りに面したこの店はサーモンフィッシングの拠点として、海外からの顧客も有する有名店でロンドンのPALL MALL店とほとんど同時期に開設された。 この店は1970年初頭、閉鎖されるまで、釣りのメッカとして多くの人々に愛された。 マネージャーのジョンソンは約40年にわたりこの店を運営してきた。 釣り場の予約、アシスタントの手配などスコットランドのサーモンフィッシングには欠かせない存在で、優先予約が可能な釣り場契約など、ジョンソンの残した功績は大きい。

12-14 MOULT STREET, MANCHESTER
この店は釣り具と銃砲を商うHARDY店として、人気があったが、1960年の後半からの景気の低迷で、HARDYの支店としては、1970年始め閉鎖された。営業的には銃砲の部門の方が充実していた。

117 WEST GEORGE STREET, GLASGOW
スコットランドのハイランド地方を代表する都市でのこの店は、サーモンフィッシングの前線基地として、戦前が多くの顧客でにぎわったが、距離的にもエジンバラと近く戦後は顧客を多く得られずエジンバラ店を残す事で1960年代の末、閉店した。

1967年7月、HARDY社はグラスロッド工場建設資金を得る為にHARRIS&SHELDONに売却、その後も経営を引き継いだが、HARDY一族の経営方針と180度の転換を迫られ、次第に商業ベースの近代化の波に見舞われる事になった。

日本における最古のHARDYの代理店2010/05/05 13:21

1937年版のHARDY'S ANGLING GUIDEに見られる日本、中国および極東の代理店として下記の社名と住所が記載されている。

 神戸市神戸海岸通り1 W.M.STRACHAN & CO(AGENCIES)LTD.
 担当者:J.E.MOSS

HARDYでは1800年の終わり頃から、自社製造によるリーダーや、ティペット付きフライの製造を本格化しており、当初はガット素材としてスペインなどから購入していた。 しかし、事業の拡大からシルク素材を採用する事となり、日本から絹の大量購入計画が生まれ、日本との取引先として、同社が選ばれた。

1920年頃からシルクフライラインの製造、さらにシルクを素材としたスピニングラインなどの購入を同社を通じて行うとともに1940年の第2次世界大戦直前まで相当量を購入した。 しかし、日本の代理店を通じてHARDY製品の日本への納入はほとんどHARDY社の記録にはなく、同社はほぼ輸出の為の代理店として存在した様子である。

JIM HARDYの推測では、極東つまり中国、日本などは英国人として当時とらえていたのはすべてまとめての視野であったので、国名表示も適当に表記したのではないかとの事である。

また、戦前に日光中禅寺湖畔に作られた東京フィッシング&ハンティング倶楽部のハンター氏のHARDY製品の所蔵は、本人が直接英国から持ち込んだもので、代理店を経由しての所有ではないとされている。 ただ同氏も貿易商であり、神戸に事務所が存在した事を考慮すると、同代理店を経由して購入した製品も含まれていても不思議ではない。 ちなみに当時、中禅寺湖畔にあったフランス大使館別荘などで使用された釣り具のほとんどは、外交官が自分で赴任の際に持ち込んだもので、当時日本において彼らを満足させられる洋式釣り具は日本には存在しなかった。

東京において当時、これらの商品を英国などから輸入したとすれば2-3の貿易商社で白州次郎氏などが経営していた会社があげられる。 これは元モーガン銀行に勤務していた樺山氏などから得た情報であるが、すでに故人で事実関係が確認出来ない。

戦後の代理店は、栄通商株式会社(大阪)、DODWELL&CO.,(東京)、株式会社スバンを経由後1976-1994の間株式会社アングラーズリサーチ(干葉)である。

HARDY BROTHERS 第2次世界大戦の前後の変遷2010/05/05 13:20

1940年、二代目社長ローレンス R.ハーディー及びフレッド、アレンは次第に入手難になってきた素材の確保に追われる様になった。 まず日本からのガット素材や絹糸の入荷が停止した。 さらに鋼材の入荷が著しく厳しい状態にせまられ、またアルミニューム素材は軍用機などの軍需産業に優先される事になっていった。

1942年に入ると、さらに素材供給が枯渇し工場の一部の操業停止に追い込まれる結果となった。 WILLIAM,JIMの両名は相次いで召集され、戦地へと赴いた。 後にWILLIAMはドイツ軍の捕虜となり、終戦まぎわの解放まで帰国出来なかった。

1942年の秋、ドイツ軍のロンドン爆撃により、PALL MALLの店舗が破壊され、シティー店のみの営業となったが、それでもジョンブル精神果敢な英国人は週末の釣りを楽しむ為か、顧客は戦火をのがれて店に訪れた。 しかしほとんどのリールは底をついており需要に応じ切れなかったという。
ローレンスは、この窮状をしのぐ手段として以前より広告や、技術交換などで交流があったロールスロイス社に応援を仰ぎ、HARDYの旋盤技術を生かして、同社の下請け作業に従事することになった。 当時ロールスロイス社は軍用機のエンジンなどの生産をおこなっていた関係で、必要部品などの製造にHARDYの応援は納期を短縮出来、終戦までこの関係が継続された。 ただロールスロイス社の事情で、この関係は公表はされていない。

1945年春、欧州戦線はほぼ終戦を迎えドイツ軍の崩壊とともに、多くの将兵が復員し、HARDYの工場も落ち着きを取り戻すが、あいかわらず素材供給の道が見当たらず、一時は開店休業の状態となった。 幸いに米国で開発されたナイロンにより絹糸にかわるガットの生産や、アルミニュームの代用としてエボナイトなどを素材にしたフライボックスなどが生産される事になった。 パラコナについては、戦前の素材確保により戦後も製造の再開が出来たが、1960年代後半から素材の確保がベトナム戦争の為難しくなっていく。 1951年のPALL MALL店の再開により、HARDYは戦後の時代を迎えるが、米国などでは既にグラスファイバーロッドが大きく展開しており、自社製造製品だけでの商売は次第に難しくなり、小売店として他社ブランドをふくめた総合釣り具店に変化を遂げていく。 WILLIAMは復員後、既に老齢となってきたローレンスを助けて副社長として采配をふるう事となり、JAMESはマーケッテイングと技術担当重役に就任する。 甥のフランクも同社の重役として就任し、HARDY一族3代目を形成してゆく事となる。

ハウス オブ ハーディーを愛する人々(抜粋)2010/05/05 13:19

1872年の創業以来、ハーディーの顧客には多くのハイソサエティーの人々がおり、ロンドン店には世界中からの来客で賑わう。

英国王室とも関係が深く、ジョージ5世をはじめ三代にわたる英国皇太子のご用達を受けている。 1937年にはバッキンガム宮殿の人形館にミニチュアのパラコナフライロッドが献上され、現在でも人形館に展示されている。
現在のエリザベス女王殿下の母、クイーンメリーもハーディーの愛用者で80才の誕生日は釣り場でもお祝いが行われた程。 今はなくなったが、第2次大戦前はスペイン、イタリアなどの王室のご用達もつとめた。
文壇では特に有名なのがザーングレイとヘミングウエーの2人、ザーングレーはハーディーの工場に乗り込んで初代のJ.J.ハーディーとトローリングリールを開発した。
1936年には1,000ポンドを越すブルーマーリンを釣果を記録した最初のトローリングリールである。 後年、彼の名前を冠したハーデイートローリングリールは今でも受注生産している世界一高額のリールである。
ヘミングウエーは鱒釣りの道具はすべてハーディーを指定していたのは有名で、ハンドメイドのロッドの愛用者であったが、ある時コレクションのすべての鱒釣り道具が盗まれた。 凝り性の性格からその日以来、ヘミングウエーは2度と川釣りには戻らなかったと息子が口述している。 以来彼は川釣りから海の大物釣りがスタートした。

英国王室に戻るが、シンブソン夫人と恋に落ちたエドワード8世はフランスに住む様になってもハーディーの製品を愛用された。 また皇太子時代、日本の昭和天皇(当時は皇太子)が最初の英国訪問をされ、お二人でスコットランドでサーモン釣りを楽しまれたが、お世話をしたのが当時のJ.J.ハーディーで、当然ハーディー製品が使用された。 洋式フライフィッシングを楽しまれた日本人は他ならぬ先代の天皇陛下かも知れぬ。 現在の徳仁皇太子もエジンバラ公よりオックスフォード在学中、何度も釣りを楽しまれており、当然ハーデイー製品を使用されている筈。

モダンジャズの巨匠のひとり、カナダ生まれのオスカーピーターソンも熱心なフライフィッシングの愛好者でロンドンPall Mall店の顧客。 ロンドン公演の際には必ず店を訪れ、釣り場や状態を調べて余暇をイングランドで釣りを楽しむ。 ドイツの元首相のブラント氏もハーディーでフライキャスティングの指導を受けて、以来ハーディーの愛好者である。

6月と1月の2回英国全土でセールと称する安売りの季節があり、ハロッズから駅前土産店までこぞって安売りの行うのが習わしであるが、ハーディーを含めて王室ご用遠の一部の店では未だにセールを行わない。 世界のハイソサエティの人々が使用しているものが、一時的にせよ安売りの対象にするのは無礼との判断からだ。

英国の影響を深く受けているインドでも高地では清流での鱒釣りなどが楽しめる。 高位のマハラジャもハーディーの顧客であるが、ロンドン店ではほとんど顧客名が記録されていない。 国情なのか習慣なのかいずれにしてもハーディー顧客はインドにも及ぶ。

(文責 HOUSE OF HARDY在日代理店株式会社アングラーズリサーチ(当時))

ある釣り職人の家系と歴史 ハウス オブ ハーディー2010/05/05 13:18

1932年、世界の経済恐慌が当時優位を誇っていた英国にも押し寄せ、飢餓に苦しむ人々がロンドンなどの都市に溢れていた。 政府は軍事費を削減して福祉政策に努めたが、海軍部内などでは一部で反乱を生む結果ともなっていた。
第二次労働党内閣は財政上の問題と共に、絶対多数の勢力はなく、党首ラムジーマクドナルドは労働党と保守党の挙国連合内閣を組織せざるを得ない不安の情勢だった。

この様な世相の中でも上流階級を顧客とするハーディー一族の商売には影響もなく、ロンドンの店には毎日ロールスロイスで乗り付ける顧客への対応に追われて居た。 特にフライフィッシングは上流社会のシンボル的なスポーツとされた時代であり、活況を呈していた。
イングランドの北、アーニックの町は北海の気候をまともに受ける地で、朝夕はめっきり冷え込む。 J.J.ハーディーは毎日の日課で1‐2階の仕事場を一巡すると既に社長職を譲ったローレンスの部屋を訪れ、日課となった釣りの話をし、ギリー(釣りの付き人)を待った。 社業は順調に推移していたが伴侶に恵まれなかった彼にとって老いとともに、フライフィッシングは最愛のものとなっていた。 その日はサーモンフィッシングを予定して、久し振りに16フィートのロッドを用意した。 長兄のウイリアムは既に地に帰って5年を過ぎていたが、彼との釣行では必ず使っていたパラコナであったが、年を経て16フィートは重量があり、最近は使っていないロッドであったが、今日はどうしてもこのロッドでコケット河の大物を狙おうと心に決めていた。

ギリーの馬車が来て、釣り具を積み込み工場から約3マイル離れたコケット河に向かったのはかげろうの楳な北イングランドの太陽が真上になってからで、釣りは午後から夕暮れを狙っての釣行であった。

ノーザンバーランド公の居城があるアーニックの町には小さな凱旋門(ボンドゲート)があり、町の入口にもなっていた。 つまりこの門の中はボンドゲートインと呼ばれる城下町を形勢し、ハーディーの工場もその一角を占めていた。 アーニック城は現在でも英国国内にある居城としては三番目の規模を誇るもので、アルン川が敷地内を流れている。 1174年にはイングランドとスコットランド戦の激戦の場となったところでもある。
後年、イングランド軍が優勢に点じてスコットランドの敗退におわるが、城の規模に対して兵員の数がすくないこの城は戦さの後、城壁上に多数の兵士をかたどった人形を配し、あたかも多数の兵士が防御しているかに見せた。 現在でも多くの名残りの兵士人形が点在している。 実際に1639‐40年の宗教戦争の際、スコットランド軍はアーニックを避けて南下、ニューカッスルに攻め込んだ。 チャールス1世率いるイングランド軍は人形兵士に助けられ、アーニックを足場に北上したのである。
J.J.ハーディーはボンドゲートアウトにある第一次世界大戦の戦没者忠魂塔にくると馬車から降りて、パーシー(ノーザンバーランド県の別称)のシンボルであるライオン像を見上げ、しばしの祈りを捧げた。 工場の職人数名の名が刻まれたプレートに目を移すと、グリーンハートを懸命に削っていた顔、ぶつぶつ独り言をいいながらパーフェクトのギヤを仕上げていた姿を思い出す。 戦場に送り出した時の事、ふ報を知らされた夜のショック、未亡人となった人達をハーディーが雇用してガット(てぐす)加工をしてもらっている事など、いつになく色々な事を思い出していた。
忠魂塔の前にはジョージ5世の後援で作られた職工学校があり、J.J.ハーディーも関与していた。 当時英国政府は地方における実技教育を推進し、アーニックにもその制度がもたらされた。 近郊から生徒を公募し多職種の職人養成を行っていた。 ハーディー社はこの事業に協力、貢献すると共に卒業生を採用している。

昼近くコケット河のいつものビートに落ち着くと、ギリーが準備を了えるまでの間、川面をみつめた。 時折サーモンの背ひれがスーと川面を切る、まあそうあわてなさんな、今行くから。 石橋の下を抜けてくる風が背中からに変わるのを見計らってまず一投、16フィートで送り出すウィリーガンは風に乗ってポイントに当然のごとく着水、流れに乗る。 いつの間にかまた風が石橋から吹き出してきて、スペイキャストのやり直し。 気温も下がってきてギリーが昼食の支度に馬車に戻った。 ひとり者なのでいつもの事だが町のホテルにバスケットランチを用意させて、ギリーが迎えに来る途中で馬車に積み込んでくる。 また相変わらずのコールドローストラムかなと思っていると、鋭い当たりが来た。 まだ合わせには早い、もうひと呼吸と川面を見据えるとサーモンが軽くジャンプし、消えた。 一瞬遅かった合わせがサーモンにチャンスを与えた。 フライを確認しようとラインを巻き上げだした途端、胸に激痛が走った、心臓発作が彼を襲った、竿尻を芝に突き剌す様にしてロッドを握り締めたが、目の前が白くなってゆく。 耳鳴りがしてきてギリーを呼ぽうとしたが声にならない。 かすかに川面でサーモンが又跳ねる音を確かめるすべもなく、生涯最後の釣りが終わった。

1872年アーニックの片隅で産声をあげたハーディー兄弟商会の創始者ジョン ジェームス ハーディーの終えんは誰ひとりも看取る事なく迎えたが、最愛の釣りの最中、サーモン、好きだったコケット河、自身で仕上げた釣り具に囲まれての大往生であった。 自らメーカーであり、キャスターであり、そしてフライフィッシングの布教者でもあった50年、そしてハーディーファミリーのその後の発展など、英国の誇る世界の釣り具業者としての歴史はすべてJ.J.ハーディーが基盤となって今日に至っているのである。

A Few Random Notes About Casting With A Fly Rod(JOHNNIE W.LOGAN) / フライキャスティングについての覚書(ジョニ-・ローガン)2010/04/24 11:44

A Few Random Notes About Casting With A Fly Rod

JOHNNIE W.LOGAN

In every sport one transfers the weight of the body into movemet;but, for some unknown reason fisherman stand in the same plane, with the result that the arms do all the work. Stance is very important; when using the double handed rod for instance, which ever hand is uppermost on the handle of the rod, that is the foot you put forward. The caster who is right handed will put his right hand at the top of the handle, and his right foot forward.

When he is ready to pick the line off the water, he will lean slightly forward with the weight on the right foot; transfering the weight to the left foot during the back cast. It is v ery importalnt that you do not exaggerate this movement; you will find that the slight movement will take all the effort from the arms and shoulders.

The next important point to remember; DO NOT GRIP THE ROD TOO TIGHTLY WITH LEFT HAND, this hand is used to put speed into the rod. If you are left handed, it is the reverse; he left hand uppermost on the rod, left foot forward. Using a single handed rod you can have either foot forward; RIGHT foot forward for accuracy, LEFT foot forward for distance. Consider; if you want to throw a ball a great distance, you stand with your left foot foward; that is if you right hand is your master hand.

To obtain distance with the single or double handed rod you do not use strength but speed; in trout fishing you use the double haul to assist the rod to speed up the line, using the doublehanded rod, the left or bottom hand pulls the butt of the rod smartly into the body; just below the left breast pocket, this puts speed into the tip of the rod.

When you are watching the demonstrations; pay particular attention to the tip of the double handed rod during the roll cast of a long line; the rod tip will only travel from 1 o'clock to 11 o'c1ock, this will teach you much.

This is your opportuhity to ask as many questions as you wish; we are here to help.

As I said before stance is very important; if you do not stand correctly one tends to twist the body making an arc with the tip of the rod causing the line to travel in TWO planes. It is important that the back cast and the forward cast travel in the same plane; otherwise the line will hit itself in the forward cast.

Some people make the back and forward cast in two distinct planes, thinking that this prevents the line hitting the caster or the rod. This is wrong; your line and fly MUST travel over the top of the rod and NEVER near the caster, this is done by a smart pickup putting speed into the line.

Most of us, when we buy a rod try to flex it by the use of physical force; this is wrong, look at your rod and you will see malked there the weight of line recommended to flex your rod. Never under line your rod, use the correct weight or SLIGHTLY over.

Make the rod do the work.

Tight Lines !




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フライキャスティングについての覚書

ジョニ-・ローガン

あらゆるスポーツにおいて、人は運動の中で体重を移動するのですが、釣人は無意識のうちに両腕が全ての動作を行うため、体重を移動しなくとも同じ事になるのです。 スタンスは非常に重要です。 例えばダブルハンドロッドを用いる場合、ロッドのハンドル部のどちらの手が利腕であろうとも、重要なのは前方に出す足なのです。 右利きでキャステイングを行う人は、その右手をハンドルのトップに置くでしょうし、その右足を前方に置くはずです。

ある人が、ラインを水面から引き揚げようとしているとき、彼は右足に体重をかけるとともに、わずかに前傾するはずです。 更にバックキャスト中は左足に体重を移すでしょう。 あなたはこの動作を大げさに考えないことです。 しかしこのわずかな動作が、両腕と両肩からあらゆる労力を取り去ってくれる事に気付くでしょう。

次に重要な点で、覚えておくべき事は「左手ではロッドをあまりきつくきっちりと握ってはいけない」ということで、この手はロッドにスピードを付けるるために用いられるのです。 もしあなたが左利きの場合は、それが逆になり、ロッドの上では左手が中心になり、左足が前方に来るのです。 シングルハンドロッドを用いる場合は、どちらの足でも前方に置くことが出来ますが、正確さのためには右足を前に、距離のためには左足を前にします。 考えてごらんなさい、もしあなたがより遠くにボールを投げたいときには、あなたは左足を前にして立つはずです。 但し、これはあなたが右利きの場合です。

シングルハンドロッドか、ダブルハンドロッドで遠投するためには、力ではなくスピードを用いるのであり、トラウトフライフィッシングにおいては、ラインをスピードアップするために、ロッドをアシストするためにダブルホールを用い、ダブルハンドロッドにおいては、左側又は下側の手でロッドのバットをすばやく体の方に引っ張るのです。 「左胸ポケットのすぐ下を目安とする」がロッドの先にスピードを与えるのです。

デモンストレーションを見るときは、ロングラインのロールキャストの間中、ダブルハンドロッドの先に特別に注意を払いなさい。 ロッドの先は1時の位置から11時の位置を移動するだけですし、この事で十分な事が学ベるはずです。

これは、あなたが望んでいる多くの疑問を問う良い機会であり、私達はその助けをするのです。

先に述べたようにスタンスが非常に重要であり、もしあなたが正しく立っていない場合は、ロッドの先が弧を描いてしまい「2つ」の線上をラインが移動してしまい、体がねじれてしまう原因となるのです。 バックキャストとフォワードキャストは同じ線上を移動する、という事は大切な事で、もしそうでなければラインはからまってしまいます。

バックキャストとフォワードキャストを2つの異なる線上で行う人達もいます。これは、ラインが釣人やロッドとからまるのを防ぐためと考えているからでしょう。 しかしこれは間違いです。 というのは、あなたのラインとフライは「必ずロッドティップの上方を移動しなければならない」のであり、又「決して釣り人の近くを移動してはならない」からなのです。 そしてこの事はラインにスピードを与えながらの素早いピックアップにより成されるのです。

私達のほとんどは、ロッドを買った時に、自分の体力の使用能力によりロッドを曲げようと試みますが、これは間違いです。 自分のロッドを見れば、あなたのロッドの曲げにおけるラインの重さの許容範囲がそこに記されているのを、あなたは見つけるはずです。 決してあなたのロッドに指定された番手より下のラインを使用してはいけません。 正しく適合したライン、もしくは「わずかに」上のラインを使用しなければならないのです。

ロッドを利用しなさい。

Tight Lines!


Copyright (c) Johnnie Logan (翻訳:荒井利治), 1999,2007. All rights reserved.

抜粋やぶにらみ続編 釣りを止めた口蹄疫2010/04/24 07:40

英国に端を発した口蹄疫は四月上旬現在で英国で一〇〇〇件を越える発生をみて、いまやその影響は欧州全体に広がりを見せている。 現実に英国を始め、アイルランド、オランダ、フランス、ドイツなどの各国に疫病が拡大し、英国だけで約百万の家畜が屠殺、焼却されている。 その処理のために軍隊が動員され旧飛行場の滑走路跡の敷地に数多くの埋葬のための穴がほられ、処分されているのを毎日のBBC放送が世界に知らせている。 日本の神戸ビーフの様に英国ではスコットランドのアンガス種の牛肉は、ローストなどにされ、欧州全土に売られてきた。 またラムと呼ばれる羊肉は英国ではもっとも大量に消費される食肉でいまやこの肉も地元の人々でも口に入らない様子で、一部の英国の肉屋では鳥肉だけしか売られていない地域もあるらしい。

口蹄疫の感染ルートのひとつに土がある。 昔は英国は欧州大陸とは海を隔てた独立独歩であったが、いまやユーロトンネルで地べたはつながってしまい、毎日何万もの自動車や、多くの人々の往来で大陸とイギリスは地続きになった。 そのために昔から云われた水際作戦はもはや役には立たず、疫病の伝染も地続きとなってしまった。 口蹄疫の発見以来、英国ではまず人口の数倍と云われる羊の管理が問題となった、羊は本来雨と湿気が多い英国でもその土地と気温に順応する家畜として飼育されて来たが、飼育の場所は限定されており、移動箇所も限られている。 しかし口蹄疫の伝染は、乾燥した土が風に舞い移動する現象が少なからず影響するので、英国特有のグリーンスリーブスでの羊たちが飛ばす土が、疫病の感染にかかわる恐れが大きいとされる。

英国では、ロンドンなどの都市をのぞき地方都市のほとんどは、町中を抜ければすぐ牧草地や、放牧地が点在するために、口蹄疫対象として人々の履物に付着する疫菌や車両のタイヤに付着する病原菌を除去するために、区々の入り口などに殺菌用具を準備して、土類の消毒を行っている。 デボンなどの地方では、地域により通常の路地なども通行禁止の場所があちこちに見られる。 さらに地域で開催されてきた朝市や、町民の祭り、集会などが中止となった。 国政選挙は数年おきに五月に行う事が決まっていたのに約半世紀を経てはじめて選挙の延期が口蹄疫の善処策を理由に決定された。 また空港などの交通機関では登場口などに殺菌カーペットを設置して乗客はすべてそのカーペットを通過する度に殺菌する処置が取られている。 日本でも既に成田空港などで欧州からの直行航空便の到着旅客は現在ボーディングブリッジに設置された殺菌カーペットを通る様になっている。

月曜から金曜までダークスーツで仕事をこなすか、カントリージャケットを一着して釣りを楽しむかが英国紳士と云われる程、英国では釣りはスポーツの中でも最右翼、特にトラウトフィッシングといわれる淡水釣りは、一四世紀頃から定着した英国の遊びとされている。 この国はスコットランドとウエールズの一部を除き山岳地帯は少ない丘陵地域が広がる。 昔の領主たちは水源確保のために人造の湖、池、運河を築き、その管理と水の品質を確保するために釣りを奨励したと云われる。 水源、家畜の放牧地帯、領地は三種の神器であった。 今回の口蹄疫の発生で駆除の方法としてまずあげられたのは、家畜の管理と疫病の有無、発見した場合の処分である。 次にこの疫病の感染と伝染の予防であった。 前述の土からの感染がまず阻止すべき初歩である点では、疑いがなくまたこの疫病の感染地区への人々の立ち入り阻止が重要と判断された水辺、湿地帯の土など最も感染率が高いとされる地域に立ち入る人はだれかとなった時、最初にその疑惑対象者になったのは、釣り人であった。 英国では家畜類の多くは放し飼いであり、放牧流域は河川があり釣り人と家畜は同じ土を踏み、歩く。 土が病原媒体であれば、釣り人は言うなれば病原菌を振り撤く元と、考えられてもどうにもならぬ。 結果的に汚染地域の土などの流出や移動を阻止する処置として、多くの地域で一時的に釣りの禁止が決定し、釣行が不可能となった。 口蹄疫と釣りは普通つながりを持つとは考えないのが通常であるが、確かに英国の風土や家畜管理を考えると釣り人はその中に存在することも間違いない事で、釣り人の自覚も必要と感じる。 日本とは同様に国の周囲を海に囲まれた英国であるが、釣りに関しては淡水釣りが主流のこの国では釣りが出来ないとなると釣り具の商売は万事休す、先日開催された国内の釣具展示会でも、息痴と不満が多く聞くかれたと云う。

英国人の食生活はいまや口蹄疫の影響で著しい変化を余儀なくされており、またウインピーのハンバーガーなども大幅値上げになっているらしい。 飛躍するが今やこの問題は国際線の機内食にまで影響を生じさせている。 世界の航空幹線である米国・ロンドン線は毎日多くの飛行機が往来し、それぞれの機内で食事が供される。 通常六~七時間の飛行時間を要するこの線では、フルコースの食事が提供され、ステーキなどがサービスされるが口蹄疫発生以後の機内では、英国国内のフライトキッチッン社のステーキはほとんどがキャンセルか、チキンなどに変更されている。 米国の航空会社の一部では英国での搭載をやめて米国からの便に往復分のステーキを準備して対応するところもあるらしいが、乗客の方が危惧してかビーフの注文が激減していて、野菜食のメニューが毎便品薄の状態になっているらしい。 この機内食は国際間で協定があり機内で使用される食品すべては、洒類を含み特別免税の処置がとられている。 したがって食材に価格の変化が著しい場合には、安い国から購入してコストを維持する方法などが航空会社の手腕とされる。 ところが現在英国からの便では、米国から安い良質ビーフを用意しても、英国のケータリングで料理すると、まるで口蹄疫の病原体の様に思われるので、免税輪入も出来ないとぼやいている。

最近欧州釣具協同機構に寄せられた正会員から、口蹄疫の発生以来特にアジア各国の税関および検疫機関がフライタイイング材料の取引について、通常の消毒証明だけではなく、口蹄疫発生国の公式免疫証明を要求するなどの、非関税障壁が起きているとクレームが寄せられている。 国際間の協定として動植物については検疫制度が確定されていて、その中でも日本は特にこの検疫に厳しい国とされる。 通常これらの材料については国際間で定められた消毒を輪出国で行うが、日本では素材によりさらに日本への上陸に際して再消毒を実施される。 それだけではなく先年国際間で批准承認された動植物保護に基づくワシントンン条約議定書にある禁輪出入品の監視、調査が厳しく、飼育動物の一部にまで制限を課す様な過剰なまでの取り締まりまで存在する。 この様なクレームが起きるのは現在アジア地区だけに止まらず法定伝染病である口蹄疫が世界に拡大することを恐れる事に外ならぬ。

(平成十年)
(荒井利治)

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抜粋やぶにらみ続編 釣具展示会東西顛末期2010/04/24 07:40

我が釣り具産業界にとって平成十一年は過去三年間の混迷のなかで、最も変化の多い年となった。 日本では最古の歴史を持った業界のリーダーでもあった東京釣用品協同組合か終焉を迎えるに至った。 戦後の復興の槌音の中の昭和二十九年、日本の釣り具産業の将来を見据えての発足であり、主眼のひとつは日本の釣具製造業者への支援を目的としたものであった。 当時は卸業者のパワーが強く釣り具業界の中小企業の育成のためにも、またメーカーとの共存のためにも協同組合法にもとずく結束が不可欠でもあった。 釣り具の世界では製造業者と位置づけ出来る企業は極少数にとどまっており、家内工業的要因が残る職人群の域を出ない人々を結束し、相互補助を推進する必要があった。 後年製造業者が収束して釣具製造組合が創設されたが、多くの製造業者は組合員として、東京の組合に加盟を存続し役員なども送り込む共存策が取られた。 その後昭和三十五年には釣具小売商組合と合併し、製造から小売まで流通の全てを取り込んだ異色ある組合として躍進した。 さらに出版、報道など釣り具関連企業まで、組合員として組み込み、主体事業である見本市の開催が決定しその第一回が開催されるに至ったのは、昭和三十八年(一九六三年)であった。 製造業者自身での見本市の開催は当時の業界の現状からむずかしく、卸企業の助けを必要としていた。 また特に中小製造企業の商品等の紹介も必須のことであり、東釣協ではこれらの状況を勘案し、小売業者を対象とした見本市の開催を決定した。 この決定の前年、当時の常見商店は自社の取り扱い商品を中心とした業者内覧会(小規模見本市)を開催し、好評裏に終了した経緯なども組合事業としての見本市開催の具申となっている。 産経会館を会場として二十二社が出展、業者二千人が来場した。
ちなみに当時既に組合化していた米国釣具製造組合(AFTMA)は業界事業としての見本市をシカゴなどで開催していたが、それ以外業界として専門の見本市は海外でも存在しなかった。

翌年には倍増した出展希望者のために産経会館の国際ホールを会場として開催、一般公開を行う事になった。 その後はこのスタイルが定着し、業者日と一般公開日の変動などがあったが、最後まで業者と需要家両方を迎える方針の変更はなかった。 数年後からはじまった大阪のショーでも同様のスタイルが採用されている。 欧米では業者と一般需要家を対象としたショーは別途に開催するのがほとんどで、業者日と一般日を区分けして、単一会場で行う例は少ない。 この方式は外国では一九九五年頃から開催されたブラジルのへイペスカショーだけであった。 この方式の決定には数年にわたる出展業者などの反応、意見、希望などを集約した結果のもので、基本的には出展者、入場者の双方から受け入れられ、フィッシングショーのスタイルとして定着した。
昭和五十四年頃から、欧州の釣り具業者はドイツ・ケルンで開催されてきたスポガアウトドア関係ショーでの釣具および関連業種への対応に不満が起こり、スポガをボイコットして欧州釣り具業者団体の設立と自主ショーの開催を模索していた。 釣り具の業界自体他の産業からみれば小規模の域を出ない産業であるが、欧州においてはその中でも日本の企業が、ずば抜けて業界を占有しており、業者団体の設立に対して一部の強硬意見は日本業者はボイコットせよとの要求であった。 しかし欧州自体の釣り具産業の多くが日本または極東の業者に依存している実態から、日本のボイコットを認めれば組織の設立は至難との結論であった。 昭和五十六年(一九八一年)、スポガに代わる釣具関係の自主団体としてエフタ(EFTTA)が難産の末誕生し、同組織が主催するショー、エフテックスは日本などの正会員以外の各社の出展ブースのサイズ制限など形式的な制約を課して翌年昭和五十七年から自主ショーの開催を決議した。
欧州のバケーションシーズンの直前、六月に英国バーミンガムにおいて第一回エフテックス(EFTTEX)が開催された。 会場は予想通り日本のブランドが目白押しの感が見られ、日本反対勢の反発を受けた、しかし現実は日本に撤退されたらショーは成立しない程の力があり、主催者としてもジレンマに悩まされる結果となった。 翌年の一九八三年のパリからは早くも当初の規制を撤廃して開催の運びとなった。 多数国参加ながら規模も小さい関係でこの年は、シャンゼリゼの西端のホテルの回廊が会場となった。 日本人にとっては好都合の場所で、同じビルの中にパリ大丸がありインスタント食品など入手出来た。 一九八五年エフテックスはデンマークのコペンハーゲンにおいて開催された。
一夕、世界に知られているチボリ公園においてレセプションが行われ、賓客として招かれた常見東釣協理事長が祝辞を述べるとともに、エフタ会長であった(当時)ビラー氏との面談の際、東京ショーを欧米のエフタ会員にも門出を開く様に要請を受けた。 東京側に異存はなく、この申し出を快諾したが同席していた米国釣具協同組合のフォイル会長からも同様の優遇をと要請され、協議の末に、世界三大ショーと位置付けされてきている米国のAFTMAショー、欧州のEFTTEXショー、そして東京フィッシングショーをそれぞれの団体に加盟するメンバーにたいして、会員待遇出展を承認した。 さらに東釣協ではこの意義ある提携を進展させる意から一九八六年のショーから名称を東京国際フィッシングショーとしてショーの構成をふくむ改善を行った。
東京国際フィッシングショーの一回目として釣聖と呼ばれるアイザック・ウォルトン回顧展を海外取材を敢行して行った。 釣りの経典といわれる釣魚大全などの展示、大英博物館所蔵の初版本の複写フィルムの公開など、一般公開ショーのためのイベントも国際化を図って挙行された。 一九八八年からは二つの海外団体会員の製品展示『世界のウインドショッピング』が開始され、エフテックスでも同様の企画展示が行われている。 東京国際フィッシングショーには海外からの直接出展が始まり、また一九八九年からは三団体相互の提携コマが設置され、それぞれのショーの広報、出展者の募集などが行える様になった。
この年のEFTTEXショーでは日欧米の協議でグローバルな視野を踏まえた国際機関の設置が検討され、持ち帰り協議としての懸案が生まれた。 世界的に広めたい釣り場の保護、明日の釣り人の育成、環境保全などを世界規模でプロモートすべきとの考えから生まれたボランティア活動の推進機関の設立である。 この団体は後日国際スポーツフィッシング協議会と命名された。
日本では、この方策に全面賛意を示し東京、大阪の両釣り関係組合、日釣工そして最もこの運動にふさわしい団体日釣振が母体となった日本支部が結成された。 そして日本代表などの人選がおこなわれた。
その後欧米と東釣協間の交流は拡大の方向で推移して来た。 特に欧州のEFTTEXショーに対しては種々にわたるノーハウの交換、共同企画の推進を積極的に行うとともに、同ショーヘの日本からの出展、視察などの参加案内窓口としてもその役割を担ってきた。 この経緯は日釣工とのショー共催になっても継続されたが、東釣協のショーの終結とともに現在ではお座なりの国際協調になっている様で、国際出展も減衰している。
東京のショーは旧協力者でもあった日釣工会員の意図的なボイコットとショー乗っ取りに近い妨害により継続が困難となり一九九六年二月の第三十四回を最後に終止符を打つ結果となった。 同年三月には日釣工が単独でフィッシングショーを横浜で旗揚げし工業会の結束を鼓舞し翌一九九七年の東釣工の会場予約の譲渡を申し入れ、事実上の乗っ取り策を行使した。 一部の東釣協の役員を取り込んでの策がなされ、以後二年間にわたって、東釣協への慰謝料的な金員として三千五百万円が支払われたが、これを契機に東釣協は主事業であり、収入源の全てを失う事となった。
一九九九年夏、東釣協の臨時総会で組合の解散が議決された。 さらに九月三十日をもって正式に解散の清算がなされる事になった。 金員の額が適当かどうかは判らないが、少なくとも三十四回にわたるショーがもたらした業界内外への貢献をそっくり引き継ぐ結果となったJOSPOショーは『漁夫の利』ではなかろうか。

一九九七年夏、米国フライフィッシング協会(AFTTA)は既に十回を迎えた国際フライタックルデーラーショーに対して、共催またはショー主権の譲渡を迫った。 一九八八年の秋、コロラド州デンバーで業界誌であるFTD(フライタックルデーラー)が業界の発展と自誌の営業拡大を目的として始めたショーである。 一九九○年に入るとフライフィッシングは米国でも急激な人口増となり、またフライフィッシングに参画する国が拡大した。 日本などもこの頃から大幅な人口増となった。 ショーは順調に拡大し、牧草の中のホテルの展示場から州立のコンベンションホールを会場に移す程に成長し、ショーの名称も国際フライフィッシングディーラーショーとした。 その矢先のフライフィッシング協会の申し出は、FTDとしては受け入れられるものではなかった。 協会側はそれならばと他のプロモーターとの接触を試み、その結果フリーマン出版社が共催の形で新しいショーを画策し会場を既製のデンバーのあるコロラド州の隣、ユタ州ソルトレーク市に候補地を選んだ。 一九九八年冒頭から協会では会員に対して自主的なショーであり、会員の参加を訴え同時にFTDへの応援拒絶を表明した。 FTDでも思わぬ伏兵に驚き、フライフィッシング協会に改善を申し入れたが既に協会側は硬化していて、申し入れは受け入れなかった。 そこでFTDでは一九九九年からは東西でのIFTDショーの開催を発表、さらに小売業者などとの利便を考えたが、一九九八年両方のショーが終了した時点ではIFTDは惨敗となり、結果としてソルトレークに軍配が上がった。 その結果IFTDでは一九九九年のデンバーにおけるショーの開催を早々と断念、西側のショーはAFTTAに委ね、東のバルティモアでのショーをIFTDの継続として実施すべく準備に入った。 ところが東釣協のショーの黎明期と同様に、弱小企業や個人事業家が多いフライフィッシングの世界では毎年二ヵ所でショーに参加するほどゆとりもなく、また協会からの見えないプレッシャーがバルティモアへの参加を躊躇させる結果となり、出展者の数が予想を大幅に下廻り中止を余儀なくさせる結果となった、さらに追い打ちをかける様にAFTTAのボイコット効果が予想外の方にも影響を与え、FTD誌自体の発刊も停止に至っている。 日本の例では数年を要しているが米国のこの事件はわずか二年の間に完全な失速と乗っ取り同様な打撃を与えていて、日本よりインパクトが強い。 まさしくこれも『漁夫の利』と言える。

南米唯一のフィッシングショーであるFEIPESCAが始まって六~七年になるが、本年のショーを限りに空中分解に近い終結を迎えた。 ブラジル・サンパウロの展示場を会場として、業者、一般と東京ショーに類似したイベントなどを中心に構成されていた。 南米らしく宵っ張りの朝寝坊タイプのショーは正午過ぎからオープンで終わりは毎日午後十時、それから夕食、飲酒となるので就寝は午前様が当然。 そんなのんびりしたショーであったが、会期が日本などにくらべると長い為か、多い年は十五万人を集めるショーとして、日本、欧州、米国などからも出展者が増大する傾向が見られた。 四年ほど前からはブラジル政府の貿易振興局が支援を始め、またプロモーションの費用の一部負担を始めるなど積極的な主催者の動きがあった。
ところが本年の四月のショー終了後、漁夫の利を得ようとして主催者と政府、そして支援団体三つ巴の駆け引きが尾を引いてしまい、政府はスポンサーから離脱、第三支援団体の無理強いに主催者が引き下がる結果となった。 第三支援者の一部が政府にすがり、二〇〇〇年以後のプロモートを始めているが、政府も乗り気うす、そのうえ関税など引き下げるとの約束が反古にされたままなので、日本や先進国からの輸入業者は高関税に悲鳴をあげており、フェイペスカの分裂を機に撤退する業者が続出していて、来年以降の予定が立たないのが現況である。 南米ではかくして漁夫の利は得られなかったが、事実上南米唯一のフィッシングショーは終焉を迎える結果となった。

なんとなく他人の揮で元気な感じを残しているのが、中国釣具見本市、これは中国の振興会的な団体が主体となってはじまった釣具関係ショーであるが、欧米などの下請けや、OEM専業メーカーなどが中国で増えた結果、台湾、韓国そして中国のトライアングルの関係が功を奏している風情が見られる。 只日本などは出展は見合わせて逆に中国業者の窓口として出展し、日本や欧米などの業者との縁結びを図る業者がではじめているのが、従来の欧米や日本のショーにはなかったもの。 同じアジア人として、また中国などは作る低価格帯の商品の一段上を開発する鍵として、日本の業者は手助けになる役目を果たすことが出来よう。 釣具のアジアからの買い付けや仕入れは欧米業者にとっては依然として魅力がある。 しかし添付される説明書や、部品リストなどをとると、日本製品と他のアジア製品には大差があり、付加価値に大きな差をつける。 これなども、日本の業者が側面から援助することにより、商品価値を引き上げる事が出未るとの判断からアジア側から日本の支援を望む体系に移行しつつある。
一九九八年香港において、ファッション分野で日本語ブームが起きた。 Tシャッなどに何でも日本語が印刷されているものが売れるブームで日本人から見ると意味不明であっても香港の人々は争って購入し、身につけた。 またショーの飾り付けなども日本漢字を採用したデザインパネルなどが多用されていて興味をひいたが、これなども日本が関与している製品と欧米に見られる事を意識してのものであって、アジア製であっても日本の技術が監修していると思わせるテクニックが珍重されての事である。
不思議と思われるかも知れないが、北京のショーで台湾業者のブースに日本人の説明員がおり、ヨーロッパからのバイヤーとの商談をこなしていた。 いまや日本製品は高額で採算がとれないが日本の技術の監修を得た台湾の製品は充分採算のとれる価格帯でバイヤーにとっても魅力ある商品として注目されていた。 日本は何も作らず、出来上がったアジア製品の監修と製品作成指導を主体として、存在感を持つ事が出来れば旧年彼らに取られた漁夫の利をこれから取り返すチャンスが生まれるかもしれぬ。

(平成十年)
(荒井利治)

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抜粋やぶにらみ続編 何日北京再来2010/04/24 07:39

黄土に染まる北京首都国際空港は昨年新ターミナルがオープンして国際線と国内線を分離した。 台湾路線と香港路線は国際線にそのまま残しているのがご愛嬌、つまり一国二制度がここにも生きている。 待合室などでは普通でさえ猥雑的な騒音が十二憶といわれる雑多な民族の国ゆえ倍増して聞こえる。 長い歩く歩道を過ぎると、入国審査、ほとんどが査証を事前に受けているので、質問もされずパス、勿論なにか言われても北京語が判らないので答え様もない。 香港などからの来訪者も同様で広東語とは全く異なる言語なので、話が出来ない。 つまり同じ中国国籍でも通訳を介さないと言葉が通じないのである。 預けていた荷物も回転台に順調に戻って北京でも赤/緑の自己申告式通路を通って税関も終了。 なぜか日本の成田の様にすぐには荷物が戻ってこないので回転台に現れる間を利用して最寄りに設置された中国銀行自動外貨交換機のお世話になって、中国元への交換もすぐに出来る。(平成十二年春現在)
上海などの空港も新空港が整備、開業して中国の空港も日本以上に整備が進んでいるらしく中国人自身が近代化に驚いている。
評判の悪い空港タクシーも新ターミナルでは若干管理がうるさい為かすんなりと乗車出来た。 昨年までは白タクが横行して手に負えなかったが今年は若干改良された様子。 でも下車する時に案の定二割ほどふっかけられたが、無視して突っぱねた。
タクシーのドライバーはほとんどが無愛想で、その上お互いに言葉に問題があるので、無言のドライブが普通。 空港を出ると唯広い野原の様な郊外をひた走る。 時折白樺などが混じる林を横切るが、未だ若葉もない木立は北の首都の寒さを予期するかのごとく、まだ枯れ色のまま。 時折簡略漢字の道路標識が色を添える以外空港から首都への道はモノトーンが続く。 北京の空港について一番びっくりするのは漢字王国である中国の首部のいろいろな表示の多くが簡略漢字で表示されていて日本人には理解出来ない事で、併記されている英語(ローマ字)の意味を解して納得する事が多い。 我々が云う京劇と呼ぶ中国の芝居など香港の早朝番組などで放送されているが、すべて字幕が流されていて、香港の人々は外国映画と同様にこれにより意味を知り、セリフを理解するのが北京に来てはじめて理解出来る。 同じ中国言語の国でありながら、台湾や香港は漢字の簡略もあまりしておらず、また旧式漢字も併用しているので、難しい漢字はいまや台湾、香港の子供達の方が理解度が高い様だ。

日本を代表するエアラインである日本航空が経営するホテル『京倫飯店』は釣具展示会が行われる国際貿易中心と隣接しており、我々の様な地元無知の来訪者にとって便利至極、その上ホテル従業員の中には日本語が解る人も多く、何よりである。 中華、日本、洋食と食べ物も好きなものが選択出来、申し分ない。 その上ホテル内に銀行があり、両替も香港や他国の様に両替率がホテルだからといって悪くない。 市中銀行と同一なのだ。 ホテルの宿泊も他国の様に一々枕銭と称するチップは不要で特別にサービスを願った場合を除いて、北京では小銭の必要はない。 同じ様に食事のあとでチップ加算のややこしい作業が北京では必要ない。

今年の中国国際釣魚用品交易展覧会(CHINA FISH2000)は二月十九日から四日間開催された。 このショーは一九九一年に第一回が開催され、中国の業者を中心として、日本、米国、欧州、韓国などについで釣り具展示会として運営されて来たもので、本年は十回目を迎えた。
会場は貿易センターの一~二階の一万平方米の会場で、中国の二百社を中心に、台湾、香港、近隣諸国、日本などが参加、欧州からも一社、そして米国スポーツフィッシング協会のブースが出展していた。 昨年までは台湾の勢力が目立っていたが今年はなんとなく勢力減衰の感が強く二日目以後の一般公開日には展示を止めて撤収する出展者も見られた。 日本からも数社が出展していたが、直接の出展はほとんどなく、現地の代理店などが代行出展の形を取っていた。
昨年に比べて全体的にショー全体に輝きがなく、また来場者の反応も新製品や、ユニークさに欠けるとの意見が大半を占めた。 これは特に日本などの下請けを行っている小物業者が日本などからの受注減のあおりを受け、本年前半の減益を厳しく受け止めている印象が見られた。 勿論この現象は釣り具だけに止まらず、現地百貨店、中小小売店などにまで波及しており、日本文字が氾濫する包装、化粧箱のままの製品が道路などで乱売されている風景が多々見られた。

米国スポーツフィッシング協会のマーク・マスターソン会長が来賓としてショーに参画されていたが、日本、欧州などからは業界要人の出席はなかった。 一九九○年頃にゴールデンエージを迎えた我が釣り具業界であったが、その後の衰勢を見ていると、二○○○年を迎えて各国でのショーの運営や、グローバルネットの異変など、どこか変化が始まっている様な感じを受けるのは小生だけであればよいのだが。

駆け足でみた北京であるが、昨年と比べても、この首都が急速に変貌を遂げている事が解る。 中国政府と上層部は何を主眼としているか判らぬが市民生活は益々欧米化している。 特に青少年の生活ではいまでは欧米や日本と変わらぬ様になっていて、もはやマックでは驚かない。 ディスコなども日本を越えていると思う程の場所が北京のあちこちに見られる。 グッチ、プラダ、ルイヴィトンなども若者に大人気で唯違うのはこれらのほとんどがコピー。 シャネルの小さなバッグが一五○○円で買えるのであまりブランドものも苦にならす手に入る。 勿論本物ではないがこの辺がミラノの人々とは違うところで、周りもほとんどコピー愛用者なので気にする方が田舎者といった按配で、考え方の違いが重要。

八人で現地人と北京ダックの夕食を取って支払った代金は五○米ドル余り。 つまり五千円。 ひとり当たり七○○円見当で三羽の北京ダックとビールなどを平らげての話。 でも日本人だけでいったら絶対黙って二万円。 依然として二重価格は現存していることも事実で、ホテルで日本人がビールを飲むと四七五円が相場、でも現地の人は時間帯によっては二四○円、つまり夕方の割り引き時間、ハッピーアワーであっても、云わないと日本人は普通の代金を請求される。

昨年一年は周辺掘り返しで難儀した天安門広場、そして、王府井、東単、西単なとが整備されてなんと地下鉄も開業した。 展示会場の貿易中心も地下鉄と直結し、周辺の地下はほとんどが商業スペース、地下の複層階にはスケートリンク、デパート、映画館などが軒を連ねる。 何せ冬には零下二十度も現存する北の首都であり、地下への依存度は札幌並、そしてハウス育ちの花花が通路に咲き乱れる様はとても一昔前の中国の写真と置き換えられない。 女性の運転手で運行される新地下鉄は車内も明るく清潔で、運賃はなんと二十五円。 保温や、安全、保安など種々の理由から地下鉄新線は地下二〇米付近を走行する。 ホームまではエスカレーターなどで結ばれているが、普段は上りのみ。 下りは階段を下りて歩行訓練。

東京/北京線は日本航空は七四七新型ジャンボ、そして全日空は七七七の新型、どちらも国際線では最短路線でありながら代表機種を使用している。
北京/東京は約二・五時間、その間にどうゆう訳か日中政府はフルサービスを要求するらしく、飲み物、食事、免税機内販売まで行う。 離陸して水平飛行になるとビール、ワインなどサービスしてくれるのはありがたいが、なんとせわしい事か、その上最近のエコノミーの食事は学校給食よりひどく肉などは精々三○グラム。 若千の野菜と不味いメシ、スライス一枚のサーモンとゴミ野菜のサラダで終わり。 どう見積もっても合計原価は二五○円程度。 ビールだって缶ビール二本が限度、余りのひどさに文句を云う気力もないままに成田帰着。 通常、機内でサービスをしてくれるスチュワーデスさんは、機内で出した食事で余ったものを、自分たちも食べる。 東京/北京路線では飛行時間も短い関係で機内乗務員もすべて日帰り、つまりメニューに出ている食事を一日二回も食べるはめになる。
勿論ビジネスやファーストの食事が残って食べられればラッキーだが乗務員の食事が出来る時間はなんと一〇~一五分程前後それも到着地に近かづいてから。
健康的に考えればそんなときはフォアグラよりごぼう巻の牛肉の方がヘルシーかも知れないが、そばや副食もなしで隠元と白菜を薄い牛肉で巻いた五センチくらいで切ったもの二個と、ジャガイモとご飯、これを『牛肉ねぎま風、香付飯添え』と献立に書く勇気ある航空会社には驚かされるが食べる側は粗末さにげんなりだろう。
一九七二年に最初に機内食の記録を初めて今年で二十八年目になるが今後どう変わるのかイササカ心配な質素過ぎる機内食である。

(平成十年)
(荒井利治)

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