HARDY BROTHERSの支店とカタログ、商標などの変遷 ― 2010/05/05 13:22
【カタログと商標】
創業当初からJ.J.HARDYは通信販売を重要視していたため創業時からカタログを重視、エジンバラーロンドン間の鉄道の整備、そして駅馬車の地方サービスなどを利用しての輸送を配慮し1937年には55版のカタログを刊行するに至った。 この年は2回目の英国皇太子のご用達であったが、その皇太子がジョージ5世として、王位についた記念の年で、ハーディーではこの祝賀として55版の一部は、祝意を表す表紙に変更した。
1942年ロンドンのPALL MALL店がドイツ軍の空襲により破壊、休業となりシティーのロイヤルエクスチェンジ店(旧市内)で細々と営業を継続する。 カタログの発行も戦前戦後の間毎年は発行出来ず、1956年に62版を刊行し戦後の毎年発行に戻った。 1951年PALL MALL店は営業に再開にこぎつけるがカタログまでは完璧に復旧出来なかった。 1968年に現在の商標である城枠のなかにフライをおいたものが採用され、旧商標のロッドを握るものは廃止された。 ただサブ商標として使われていた楕円形のなかに HARDY, ALNWICK とかかれたものは商品の一部に引き続き使用された。
1987年頃から、商標のマイナーチェンジが行われ、長方形のなかに城とフライのマークがおかれ、周囲をフライが囲むものに変更されたが、基本は同じ。 ただ色彩が加わり公式には ROYAL NAVY(紺色) をベースに商標などを GOLD MOTIF(金色) で表示する様に変更された。(単色の場合は白抜き)
カタログはその後、1966年-1971年は変形B5サイズで発行されたが、名称はANGLER'S GUIDEではなく ANGLERS CATALOGUE となった。 1971からは現在のA4版として定着したが昔の面影を残さないものとなった。 HARDYカタログは1980年末から経営者が変わった為に、定期的な発行が行われなくなった。 1992年を最後に過去2年余新カタログは発行されなかったが1995年3月最新版が刊行された。
【小売部一支店】
1930年頃までに英国国内に6店舗を持ち、直接顧客に製品の販売を展開するとともに、現在のプロショップ制度に似たハーディーの販売ネットを国内に整備し、英国内の主要都市でHARDY製品が販売出来る事になった。 また直営6店舗ではロッドのオーダーメイドの引き受けを行った。
61 PALL MALL 店
現在唯一残っているロンドンの小売部、セントジェームス宮殿の正面にある(注:2006年現在撤退した模様)。 本来この店は貴族、王室関係者のご用達として設置したが、外交官などの口伝えで外国の名士やマハラジャなどが顧客となった。 ヘミングウェー、ザーングレイなどの文士もこの店の常連であった。 現在でも公爵、子爵などが時折来店される。 終戦後、ビルの復興が行われ1951年4月4日に業務を再開した。
CASTING SCHOOL OF LONDON と呼ばれる釣りの個人教授は1928年 MR.F.TILTON がウインブルドン公園で行っていたものを、ハーディーが専属契約をし、始まった。 その後1930年代半ばから、担当者としてCAPTAIN EDWARDSを迎え、場所もHARDYの本社があるALNWICKの領主であるDUKE OF NORTHUMBERLAND(ノーザンバーランド公爵)のロンドンの館があるSYON PARKに場所を移した。 公爵は二代にわたり、HARDY BROTHERS社を評価し、地場産業の育成のため多くの助力を惜しまなかった、ゆえにこの関係が新しい商標にみられる通り城内のフライとなった。 ノーザンバーランド公爵の城内のフライはHARDYを意味するものである。
エドワードは多才の持ち主であり、航空機の操縦を始め、ダイムラーのテストドライバーとしても著名で、さらに多くの釣りトーナメントのチャンピオンの名声をほしいままにした人で、晩年まで多くの世界の人々にフライフィッシングを伝授した。
1960年代の半ばに3代目の教授として、エドワードの愛弟子であるJOHNNIE W. LOGANがその後を引き継いだ。 ジョニーはエドワードの技能に傾倒しており、彼の技術を見事に継承したと言われている。 またジョニーは在職時代には多くのハーディー製品のフィールドテスターとしても活躍している。
受講者や一般には CASTING SCHOOL OF LONDON はHARDY社の運営と思っている人がほとんどであるが、エドワードやローガンはHARDYの社員でも嘱託でもない。 HARDYと彼らは専属契約をなしたいうなればテナントの様な関係でむすばれていたのである。
勿論、授業の為の釣り具などの提供はHARDYが行っていたが、自己用釣り具については個人購入をしていたのである。
戦前からの銃砲部門も1970年代までは、継続していた。 グループのなかにはチャーチル銃があり、またグラントなども関与していた。 戦前にはウインチェスターなども手広く扱ってきた関係でPALL MALL店は銃砲ファンも多くあった。 しかし銃砲の事業は次第に衰退し、グループの銃砲部門は、チャーチル、アトキン、グラント、ラングの4社を統合し再建を図ったが成功には至らず80年代全般でPALL MALLから撤退した。
1970/1980年代までは、勤続30年余の店員を有する店で、ALAN VARE, TIM STOOPなど経験豊かな支配人が店を管理してきたが、近年はほとんど古い店員もおらず、顧客を見分けるものがいなくなってしまっている事は残念である。
12 ROYAL EXCHANGE(戦後は 81 CANNON STREET に移転)
シティーと呼ばれる高級階級や、金融筋の人々を相手として、営業を行ってきたが、HARRIS&SHELDONグループにHARDYを売却事閉鎖された。 この店の特徴は早くから贈答品としての釣り具が多くハイソサエティーの人々が、クリスマスや退職記念品などに釣り具を利用しており、景気に左右される典型的な店舗であった。
37 GEORGE STREET, EDINGURGH
スコットランドのエジンバラ市の目抜き通りに面したこの店はサーモンフィッシングの拠点として、海外からの顧客も有する有名店でロンドンのPALL MALL店とほとんど同時期に開設された。 この店は1970年初頭、閉鎖されるまで、釣りのメッカとして多くの人々に愛された。 マネージャーのジョンソンは約40年にわたりこの店を運営してきた。 釣り場の予約、アシスタントの手配などスコットランドのサーモンフィッシングには欠かせない存在で、優先予約が可能な釣り場契約など、ジョンソンの残した功績は大きい。
12-14 MOULT STREET, MANCHESTER
この店は釣り具と銃砲を商うHARDY店として、人気があったが、1960年の後半からの景気の低迷で、HARDYの支店としては、1970年始め閉鎖された。営業的には銃砲の部門の方が充実していた。
117 WEST GEORGE STREET, GLASGOW
スコットランドのハイランド地方を代表する都市でのこの店は、サーモンフィッシングの前線基地として、戦前が多くの顧客でにぎわったが、距離的にもエジンバラと近く戦後は顧客を多く得られずエジンバラ店を残す事で1960年代の末、閉店した。
1967年7月、HARDY社はグラスロッド工場建設資金を得る為にHARRIS&SHELDONに売却、その後も経営を引き継いだが、HARDY一族の経営方針と180度の転換を迫られ、次第に商業ベースの近代化の波に見舞われる事になった。
創業当初からJ.J.HARDYは通信販売を重要視していたため創業時からカタログを重視、エジンバラーロンドン間の鉄道の整備、そして駅馬車の地方サービスなどを利用しての輸送を配慮し1937年には55版のカタログを刊行するに至った。 この年は2回目の英国皇太子のご用達であったが、その皇太子がジョージ5世として、王位についた記念の年で、ハーディーではこの祝賀として55版の一部は、祝意を表す表紙に変更した。
1942年ロンドンのPALL MALL店がドイツ軍の空襲により破壊、休業となりシティーのロイヤルエクスチェンジ店(旧市内)で細々と営業を継続する。 カタログの発行も戦前戦後の間毎年は発行出来ず、1956年に62版を刊行し戦後の毎年発行に戻った。 1951年PALL MALL店は営業に再開にこぎつけるがカタログまでは完璧に復旧出来なかった。 1968年に現在の商標である城枠のなかにフライをおいたものが採用され、旧商標のロッドを握るものは廃止された。 ただサブ商標として使われていた楕円形のなかに HARDY, ALNWICK とかかれたものは商品の一部に引き続き使用された。
1987年頃から、商標のマイナーチェンジが行われ、長方形のなかに城とフライのマークがおかれ、周囲をフライが囲むものに変更されたが、基本は同じ。 ただ色彩が加わり公式には ROYAL NAVY(紺色) をベースに商標などを GOLD MOTIF(金色) で表示する様に変更された。(単色の場合は白抜き)
カタログはその後、1966年-1971年は変形B5サイズで発行されたが、名称はANGLER'S GUIDEではなく ANGLERS CATALOGUE となった。 1971からは現在のA4版として定着したが昔の面影を残さないものとなった。 HARDYカタログは1980年末から経営者が変わった為に、定期的な発行が行われなくなった。 1992年を最後に過去2年余新カタログは発行されなかったが1995年3月最新版が刊行された。
【小売部一支店】
1930年頃までに英国国内に6店舗を持ち、直接顧客に製品の販売を展開するとともに、現在のプロショップ制度に似たハーディーの販売ネットを国内に整備し、英国内の主要都市でHARDY製品が販売出来る事になった。 また直営6店舗ではロッドのオーダーメイドの引き受けを行った。
61 PALL MALL 店
現在唯一残っているロンドンの小売部、セントジェームス宮殿の正面にある(注:2006年現在撤退した模様)。 本来この店は貴族、王室関係者のご用達として設置したが、外交官などの口伝えで外国の名士やマハラジャなどが顧客となった。 ヘミングウェー、ザーングレイなどの文士もこの店の常連であった。 現在でも公爵、子爵などが時折来店される。 終戦後、ビルの復興が行われ1951年4月4日に業務を再開した。
CASTING SCHOOL OF LONDON と呼ばれる釣りの個人教授は1928年 MR.F.TILTON がウインブルドン公園で行っていたものを、ハーディーが専属契約をし、始まった。 その後1930年代半ばから、担当者としてCAPTAIN EDWARDSを迎え、場所もHARDYの本社があるALNWICKの領主であるDUKE OF NORTHUMBERLAND(ノーザンバーランド公爵)のロンドンの館があるSYON PARKに場所を移した。 公爵は二代にわたり、HARDY BROTHERS社を評価し、地場産業の育成のため多くの助力を惜しまなかった、ゆえにこの関係が新しい商標にみられる通り城内のフライとなった。 ノーザンバーランド公爵の城内のフライはHARDYを意味するものである。
エドワードは多才の持ち主であり、航空機の操縦を始め、ダイムラーのテストドライバーとしても著名で、さらに多くの釣りトーナメントのチャンピオンの名声をほしいままにした人で、晩年まで多くの世界の人々にフライフィッシングを伝授した。
1960年代の半ばに3代目の教授として、エドワードの愛弟子であるJOHNNIE W. LOGANがその後を引き継いだ。 ジョニーはエドワードの技能に傾倒しており、彼の技術を見事に継承したと言われている。 またジョニーは在職時代には多くのハーディー製品のフィールドテスターとしても活躍している。
受講者や一般には CASTING SCHOOL OF LONDON はHARDY社の運営と思っている人がほとんどであるが、エドワードやローガンはHARDYの社員でも嘱託でもない。 HARDYと彼らは専属契約をなしたいうなればテナントの様な関係でむすばれていたのである。
勿論、授業の為の釣り具などの提供はHARDYが行っていたが、自己用釣り具については個人購入をしていたのである。
戦前からの銃砲部門も1970年代までは、継続していた。 グループのなかにはチャーチル銃があり、またグラントなども関与していた。 戦前にはウインチェスターなども手広く扱ってきた関係でPALL MALL店は銃砲ファンも多くあった。 しかし銃砲の事業は次第に衰退し、グループの銃砲部門は、チャーチル、アトキン、グラント、ラングの4社を統合し再建を図ったが成功には至らず80年代全般でPALL MALLから撤退した。
1970/1980年代までは、勤続30年余の店員を有する店で、ALAN VARE, TIM STOOPなど経験豊かな支配人が店を管理してきたが、近年はほとんど古い店員もおらず、顧客を見分けるものがいなくなってしまっている事は残念である。
12 ROYAL EXCHANGE(戦後は 81 CANNON STREET に移転)
シティーと呼ばれる高級階級や、金融筋の人々を相手として、営業を行ってきたが、HARRIS&SHELDONグループにHARDYを売却事閉鎖された。 この店の特徴は早くから贈答品としての釣り具が多くハイソサエティーの人々が、クリスマスや退職記念品などに釣り具を利用しており、景気に左右される典型的な店舗であった。
37 GEORGE STREET, EDINGURGH
スコットランドのエジンバラ市の目抜き通りに面したこの店はサーモンフィッシングの拠点として、海外からの顧客も有する有名店でロンドンのPALL MALL店とほとんど同時期に開設された。 この店は1970年初頭、閉鎖されるまで、釣りのメッカとして多くの人々に愛された。 マネージャーのジョンソンは約40年にわたりこの店を運営してきた。 釣り場の予約、アシスタントの手配などスコットランドのサーモンフィッシングには欠かせない存在で、優先予約が可能な釣り場契約など、ジョンソンの残した功績は大きい。
12-14 MOULT STREET, MANCHESTER
この店は釣り具と銃砲を商うHARDY店として、人気があったが、1960年の後半からの景気の低迷で、HARDYの支店としては、1970年始め閉鎖された。営業的には銃砲の部門の方が充実していた。
117 WEST GEORGE STREET, GLASGOW
スコットランドのハイランド地方を代表する都市でのこの店は、サーモンフィッシングの前線基地として、戦前が多くの顧客でにぎわったが、距離的にもエジンバラと近く戦後は顧客を多く得られずエジンバラ店を残す事で1960年代の末、閉店した。
1967年7月、HARDY社はグラスロッド工場建設資金を得る為にHARRIS&SHELDONに売却、その後も経営を引き継いだが、HARDY一族の経営方針と180度の転換を迫られ、次第に商業ベースの近代化の波に見舞われる事になった。
一流ブランド物語 HARDY(ハーディー) ― 2010/05/05 13:22
魚釣りの聖書、アイザック・ウォルトンの「釣魚大全」をひもとくまでもなく、フィッシングの正統、いや釣りのなかの正統派といっても決して過言ではないフライフィッシングは、莫国紳士の伝統ある釣り方である。 もちろん日本でもてんから釣りやアユのドブ釣りといった日本独特の毛バリ釣りがあるが、それはさておき、世界のフライフィッシングといえば、英国紳士によって完成されたかなりテクニックを要するスポーツフィッシングである。 それはエサ釣りとちがって昆虫に似せた毛バリを生きているようにキャスティングして魚を誘う、釣り人にもハンディーを負わせた釣り方である。
英国北部の小さな町、アーンウィックに名の知られた鉄砲メーカーがあった。 1872年、その鉄砲づくりのかたわら釣具をつくりはじめる。 ハーディー・ブラザーズ社は以来100年以上にわたって世界の釣具のスペシャリストとして、フライフィッシングの歴史をつくってきた老舗として知られている。
ハーディーといえば、まず竹竿。 1881年、トンキンバンブーを使ったフライロッドがはじめて博覧会に出展、ゴールドメダルを受ける。 以来初代のウィリアムとジョン・ジェームス・ハーディー兄弟のつくり出すロッドは、毎回ゴールドメダリストとしてヨーロッパ中に知れわたってゆくのである。
さらに2代目ローレンス・ロバート・ハーディーは六角竿の加工に機械を導入し、製品の品質性能をより高度にしていった。 バンブーロッドに冠されている名称に「パラコナ」がある。 これはハーディー社の商標であるが、一時竹竿を称してパラコナロッドといわれたほどであった。
余談めくが、バンブーロッドに使われる竹は、中国海南省に群生するトンキンバンブーを使っている。 この地方は1年中強い風が吹いており、この風が、密な繊維と強靭な弾力性をもったねばり強い竹に成長させている。 ハーディー社は広州交易会を通じて、このトンキンバンブーを大量に買いつけ、さらにこれを厳選して製品化している。
ナチユラルケーンロッドと呼ばれるハーディーのパラコナロッドが生まれるまでには、約10年はかかる。 供給された素材を自然に乾燥させるのに8年~10年、その後、約40日を要してロッドに仕上げられる。 すべて手づくりで一本一本仕上げられてゆく。 三角型に割った竹を6枚貼りあわせて六角型をつくりだす。 接着後の乾燥はムロに入れられ、60ワットの電球ひとつの熱で時間をかけて行なわれる。 度かさなる検査、最後の仕上げまですべてゆっくりムード。 一本ごとに書かれるロッド銘も手書きである。 近年、グラスファイバーや、カーボン・グラファイトのロッドが全盛であるが、100年を越える伝統につちかわれたハーディーのバンブーロッドの魅力は不変である。
また、フライリールについても、世界一と自他ともに認めるもので、数多い種類、世界の他社ロッドにフィットするリールとして他のロッドメーカーが純正リールとして採用しているほどである。 このリールは英国デザインセンターに永久保存品として納められており、他社リールのプロトタイプになっている。
また、ハーディー社は、1899年以来ロンドンに小売部を開設、世界のフライマンのメッカとしてにぎわっている。 この店では、1908年からキャスティングスクールを開設しており、2代目教授である現任者のジョニー・ローガン氏はチャールズ皇太子に釣りを伝授した人でもある。
ハーディー社は1931年、プリンス・オブ・ウェールズより「メーカー・オブ・フィッシング・タックル」の称号を授けられており、ジョージ五世、キング・アルフォンソ、キング・オブ・イタリア、プリンス・アクセル(デンマーク)さらに、チャールズ皇太子の釣具のご用達をしている。
現在、城の中にフライを配したシンボルマークが使われているが、この城は本社のあるアーンウィックのノーザンバーランド公の古城である。
英国北部の小さな町、アーンウィックに名の知られた鉄砲メーカーがあった。 1872年、その鉄砲づくりのかたわら釣具をつくりはじめる。 ハーディー・ブラザーズ社は以来100年以上にわたって世界の釣具のスペシャリストとして、フライフィッシングの歴史をつくってきた老舗として知られている。
ハーディーといえば、まず竹竿。 1881年、トンキンバンブーを使ったフライロッドがはじめて博覧会に出展、ゴールドメダルを受ける。 以来初代のウィリアムとジョン・ジェームス・ハーディー兄弟のつくり出すロッドは、毎回ゴールドメダリストとしてヨーロッパ中に知れわたってゆくのである。
さらに2代目ローレンス・ロバート・ハーディーは六角竿の加工に機械を導入し、製品の品質性能をより高度にしていった。 バンブーロッドに冠されている名称に「パラコナ」がある。 これはハーディー社の商標であるが、一時竹竿を称してパラコナロッドといわれたほどであった。
余談めくが、バンブーロッドに使われる竹は、中国海南省に群生するトンキンバンブーを使っている。 この地方は1年中強い風が吹いており、この風が、密な繊維と強靭な弾力性をもったねばり強い竹に成長させている。 ハーディー社は広州交易会を通じて、このトンキンバンブーを大量に買いつけ、さらにこれを厳選して製品化している。
ナチユラルケーンロッドと呼ばれるハーディーのパラコナロッドが生まれるまでには、約10年はかかる。 供給された素材を自然に乾燥させるのに8年~10年、その後、約40日を要してロッドに仕上げられる。 すべて手づくりで一本一本仕上げられてゆく。 三角型に割った竹を6枚貼りあわせて六角型をつくりだす。 接着後の乾燥はムロに入れられ、60ワットの電球ひとつの熱で時間をかけて行なわれる。 度かさなる検査、最後の仕上げまですべてゆっくりムード。 一本ごとに書かれるロッド銘も手書きである。 近年、グラスファイバーや、カーボン・グラファイトのロッドが全盛であるが、100年を越える伝統につちかわれたハーディーのバンブーロッドの魅力は不変である。
また、フライリールについても、世界一と自他ともに認めるもので、数多い種類、世界の他社ロッドにフィットするリールとして他のロッドメーカーが純正リールとして採用しているほどである。 このリールは英国デザインセンターに永久保存品として納められており、他社リールのプロトタイプになっている。
また、ハーディー社は、1899年以来ロンドンに小売部を開設、世界のフライマンのメッカとしてにぎわっている。 この店では、1908年からキャスティングスクールを開設しており、2代目教授である現任者のジョニー・ローガン氏はチャールズ皇太子に釣りを伝授した人でもある。
ハーディー社は1931年、プリンス・オブ・ウェールズより「メーカー・オブ・フィッシング・タックル」の称号を授けられており、ジョージ五世、キング・アルフォンソ、キング・オブ・イタリア、プリンス・アクセル(デンマーク)さらに、チャールズ皇太子の釣具のご用達をしている。
現在、城の中にフライを配したシンボルマークが使われているが、この城は本社のあるアーンウィックのノーザンバーランド公の古城である。
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