抜粋やぶにらみ続編 福神漬2010/04/24 07:37

故あって四月から五月にかけて生まれてはじめて入院生活を味わった。 どこでも同じなのだろうが、病院食というのは人間の嗜好をまったく無視しての薄味で、青菜を味も付けずに、食すことにも出くわす。 キッコーマン人生で過ごして来たものにとって、出される食事の内容よりも味付けがなんとかならないかと思うのは、入院患者皆同じで、ベッド脇の小物入れにはだれもが押しなべて、醤油や梅干しをこっそり忍ばせている。 そんな入院生活の最中に、隣の同病哀れみの患者からいただいた福神漬は、天国から差し入れられた逸品の様で、退院後の今でも舌にその味わいを残す。
約五十日の床病生活でライスカレーが出たのは一回だけ。 勿論福神漬が添えられていたが、それ以外は毎日青菜や香の物が出ても、福神漬が顔を出す事はなかった。 病院食はすべてカロリー計算が行われる関係か、塩分が多いのか知らないが、福神漬は一品として認知されていないのではないかと自問自答するはめになった。 普段気にとめていないのに入院生活で福神漬が気になったのは、いかに病院食が通常と違うものかを教えてくれた。

江戸末期の上野の町でも、特に広小路と呼ばれる地域は遊興の町として下町の一角をなしていた。 食い物やも多く連玉庵の蕎麦屋、寄席の末広亭(のちに鈴本も誕生する)などとともに、漬物と煮豆を商う酒悦が古くからこの界隈に軒をならべていた。 不忍池などの賑わいが聞こえてくる場所であるが、上野は谷中、根津、根岸など大根をはじめとする江戸野菜の生産地にも程近い地であった。 切り干しの大根、ナタ豆など七種類の乾燥した野菜を甘く味付けしたたまり醤油に漬けて仕上げたのが酒悦の福神漬で、当時から谷中にある七福神の寺杜から名前をいただいて、酒悦では福神漬として売り出した。
いまでもそうだが、この福神漬は二種類ある。 ビン詰などにされる上物と、キロ単位で包装されている安物があり、前者は進物や詰め合わせなどにされる、後者は業務用として食べ物業界に多く使われるものと、酒悦では戦前から縁日などの特売品などによく使われている。 上物は漬け込み期間も長いので、色濃く仕上がっており、素材に十分味が染み込んでいて美味なものだが、安い方は紅を使用している関係と、漬け込み期間が短いので、色合いが派手な感じが特徴。 居酒屋でも、食堂でも香の物、お新香はメニューとして存在するが、福神漬はなぜか金を取る商品や一品として献立に載る事がないのはなぜなのか。 価格的に考えても、紅生姜などにくらべればコストの点でも高く現実に牛ドン屋のカウンターには福神漬は置かれていない。 勿論牛丼の本来の香の物は浅漬の野菜が本流で、紅生姜は吉野屋あたりが考えだした安直なサービス。 普段ほとんど福神漬を食べたくなる事はないが、ではライスカレーの添え物以外に用途がないのだろうか。

断りもなしに戦後、誰云うとなく支那ソバは中華ソバになり、ライスカレーがカレーライスになった。 もともとライスカレーは下町の洋食屋とか、そばやの店屋ものとして生まれ、クロンボの商標のSBカレー粉の普及で、家庭料理となった。 ちょっと煮えが足りないニンジンや、ジャガ芋が入っていつもおふくろは小麦粉を入れ過ぎるので、翌朝残ったライスカレーを食べるときは、暖めなおすのに水を足してもどさないと、ダンゴ状になっていたのが伝統的な家庭のライスカレーであった。
たまには気取ってラッキョが二、三粒添えられていることがあったが、福神漬はライスカレーの友として、不可欠の存在で、皿の協にわずかに福神漬のたまり醤油の色が残っていることが、カレーを食した証拠でもあった。

カレーライスと呼ばれる様になってからは、一輪車のミニチュアの様な入れ物にカレーが入り、気取った食堂などでは、ライスを盛った皿と三種の神器のごとく小付け皿に福神漬、ラッキョ、紅生姜を添えて出すのが当たり前の様になっている。 銀座あたりの場違いレストランでは、ピクルスなどを加えているが価格的にもあれはライスカレーやカレーライスではない。 ウエッジウッドの皿で供される様な料理ではないし、あえて云わせてもらえば福神漬の立場がない。 さらに近年ではこの神器をカウンターなどに置き、客が皿に盛り分けて食すところもあるが、全部たいらげてよいものなのか、ラッキョは何粒までが適当な取り方なのか、ご存じの方があれば伺いたい。
また、全国のカレーライスに使用されている福神漬が実は九〇パーセント以上偽物である事をどれだけの人が知っているだろうか。 今はやり言葉になっている知的所有権を福神漬も持っていて、立派な商標なのである。 商標権は酒悦のものである。 勿論上野の漬物屋が全国の要望に対して百パーセント供給するほどの規模ではないが、これほど偽物が横行している食品も実は珍しい。 おそらく百を越える漬物業者が類似の物を商品化し各業者はそれぞれ名前を付けているが、まずその業者がつけた名前で呼ぶ事はない。 現在では日本だけでなく、ハワイでも米国でも欧州でも日本料理が蔓延しており、カレーライスも日本の料理のひとつとして定着しているが、本物の福神漬はほとんど使われていない。 北野タケシの経営するワイキキのカレー屋で出されるカレーライスに付いてくるのは、ハワイ産の福神漬もどきである。 大手漬物食品業者のなかで新進漬と名付けたものがあるが、これもだれひとりとして、ただしい名前を呼ばない。 業者も勿論承知の上で、福神漬と呼ばれる事で安堵している面がある。 また本来福神漬は前にも述べたが七種類の素材をミックスしているのであるが、ひどいのになると百パーセント大根とわずかにゴマが入っている程度の粗悪品もある。 が人々はこの点について眼中にはなく、ライスに添えられた福神漬風味の漬物に満足しているのも、実に不思議である。

昭和三十年の前半の頃、勤めの関係で麻布の狸穴まで毎日通勤していた。 当時狸穴の坂下に『暮らしの手帳社』の編集部兼研究部があり、名編集長と言われた花森安治さんがおられ、何度かお話しする機会を得た。 合理主義者の氏からいろいろご教示を得たが、いまでも忘れられない逸話として、同誌に掲載された『小林一三と福神漬物語』がある、若輩ながらこの話に感激して一夕お話しを伺った事がある。 氏もこれだけは後世に伝えたいと、遅くまで取材のときの事など話して下さった。 今思い出すと同氏が逝去された頃の事だ。 たまたま入院中に雑誌『東京人五月号』が発売され、小林一三特集が組まれていた。 宝塚歌劇、阪急電車、第一ホテルなどを経営され、また商工大臣なども歴任された方で大衆のなかの実業家として知られた人である。 勿論、この特集で福神漬物語が載っているのではと期待したが、発見出末なかった。 そこで福神漬やぶにらみとして、花森さんの意志をこの機会にお伝えしたいと思う。

小林一三(以下小林と省略する)は、明治六年山梨県の韮崎に生まれたが、二十才の時、大阪の三井銀行に勤務した事が縁で、以後大阪の開発を中心として壮年期活躍された。 五十才の頃には、多くの事業に成功し阪急電鉄の経営も軌道にのり、宝塚大劇場を竣工、今日でいういわゆるテーマパーク・ルナパークを開業した。 また大正十四年には梅田の阪急ビルに直営マーケットと大衆食堂を開いた。 小林の構想は、大阪の中心部梅田と郊外を結ぶ鉄道網の整備、終着地域におけるレジャーセンター、そして沿線の住宅化と不動産業の拡大があった。 昼は大阪に勤め、沿線に住居をなし、休日は家族で遊園地やレジャー施設で過ごすという、一貫した流れを大衆に与える事により、阪急の繁栄を夢見ていた。 日曜日となると大衆食堂部が調理した仕出し弁当の屋台を駅頭に出し、遊園地に向かう家族連れを客とした。 大阪寿司特有の酢めしの香りが駅中に漂い、多くの人々に利用された。 運動会の時期になると、早朝からこの弁当販売を準備し、電車の増発や大衆食堂の時間延長をはかるなど、食文化の地と言われる大阪の人々に広く受け入れられたのである。 昭和四年には梅田に阪急百貨店を開業し、最上階には大衆食堂をオープンさせた。 デパートが本格的に食堂の営業を始めたのは、阪急が最初の事である。 小林は自分の事業に関しては周辺が驚くほど、小まめに顔を出し、直接関係部署に指示を与えたという。 特にメニューについては安価で安直な料理を中心として構成し気軽に大衆が利用出来ることがターミナルのデパートの食堂の骨子であると疑わなかった、また社会の要望、経済の動きなど大衆の心を知るすべとして、阪急の大衆食堂は生きたデータを得る貴重な場所でもあった。 無駄を戒め、関西人としての生きザマを見せつけるかの様に食べ残した物を持ち帰れる様にサービス容器なども準備したという。

関西の雄として、阪急の示した大衆への姿勢は大阪の人々に次第に浸透し、阪急ファンは急激に増大していった。 時の日本経済は暗雲が漂う大恐慌につながりはじめていた事など、阪急だけを見ていると無縁の様に思われた。 昭和六年、阪急ビルの増築が完成すると、小林は躊躇せずまず大衆食堂の拡張を行った。 不況の深刻さを増して行く市中を配慮して、彼のモットーでもある低価格の食堂の必要性が増すと判断したからだ。 またこの頃から現在の東京電力の前身である東京電燈や目蒲線などの取締役に就任するなど、東京と大阪を往復する生活となり、日課としていた阪急の大衆食堂への日参がむずかしくなっていたが、営業状態についての注意を怠らなかったと言われる。
大衆食堂の拡張後のある日、小林は客数の増大や管理経費の膨らみに比べて売上の下落に驚いた。 毎日の新聞は昭和の恐慌記事があふれ、農家の婦女の人身売買、自殺事件、失業率の拡大などのニュースにも、人々は無関心を示す呆然とした社会になっていた。 大阪に戻った彼は自宅にも戻らず阪急の大衆食堂に直行した。 駅頭には既にピークを迎えた大恐慌下の民衆が群れをなしていたのである。 食堂の前に立つと、多くの人々が列をなし食券を求めていた。 小林はそんな人々を見て安堵するとともに、自分の進めて来た大衆のための安価の食堂経営が間違っていなかったと、自負したがその安堵感はわずか数分で打ち砕かれたのである。

当時、阪急百貨店の大衆食堂の最も安いメニューはライスカレーで、ほとんど翌日に残す事なく売り切っていた。 ところが厨房に入ると黄昏が近い時刻でありながら大鍋のカレーはほとんど売れ残っていた。 長蛇の列の客が求めていたのは『ライスカレーのカレー抜き』と呼ぶメニューにないものであった。 つまりライスだけの注文である。 毎日の食事にも事欠く状況まで、恐慌の波は大衆に及んでいて、いかに安く食事にありつくか、人々は苦悩していたのである。 勿論、食堂のメニューにはライスがあったが、人々はこのライスを注文せず、あえて『ライスカレーのカレー抜き』を求めるのには、深い思慮があった事を小林はすぐに納得した。 つまりキーは福神漬であった。 ライスの注文ではつかない福神漬がライスカレーであれば当然のごとくライスの脇に添えられている。 人々は、この福神漬をおカズにして飢えをしのぎ、またライスを食べたのである。
阪急の食堂部でも最初はこの注文の意味がわからなかったが、食堂の主任は人々の窮状を知り上部に報告することなく、ライスと同額で『ライスカレーのカレー抜き』の注文に答えたのであった。 小林はこの食堂主任を呼び称賛を与えるとともに、後にこの主任を重役に重用したと言われる。

小林はその時の感想として、恐慌は永久には続かない、今、阪急のライスカレーのカレー抜きを得て生き延びた人々は、必ずいつか阪急の顧客として沿線に住居を持ち、末長く阪急のためになってくれる。 人々の窮状を反映させてこそ、大衆食堂の生きる道であり、百貨店が継続出来るし、人々に愛される様になろう。 大衆はウソをつかない。 この事は阪急が人々とともに歩む礎としてこれ以上貴重な宝物はないと述べたという。
小林は即座に食堂のすべてのテーブルに丼で山盛りにした福神漬を無料で供し、さらにライスの価格を引き下げた。 暮らしの手帳社にはこの記事の掲載後、ライスカレーのカレー抜きで生き延びた人々大阪の人々から多くの来信があり、花森編集長に、カレー抜きの会の結成の呼びかけまで寄せられた。 来信された人々の住所はまさしく小林の予言通り、いまや関西の山の手と云われる芦屋、箕面、宝塚などに住む人々であった。

昭和八・九年には、小林は東京電燈の社長となり、また日比谷映画劇場、有楽座、東京宝塚劇場などを次々竣工させ、日本の小林としての地位を不動のものにした。 東京宝塚劇場でも、場所には不釣り合いとも思われた大衆食堂を営業し、ライスカレーがメニューの載せられたのは勿論であった。 この時もテーブルには福神漬が置かれていたと言われるが、小林にとっては自分の宝物を東京進出に際しても、忘れ難いものであったに違いない。 たかが福神漬されど福神漬である。 氏はその後も東宝、江東楽天地、第一ホテルなどの経営に参画し、国務大臣などを歴任し、八十四才の生涯を終えた。

(平成十年)
(荒井利治)

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