フライフィッシング内緒話 第8回 コンピュータの記録から2010/04/24 08:03

1976年からフライ・フィッシングに行った時の記録を取っていてその記録を、コンピュータにインプットして、データ・ベースを作ったことは、前回書いたが、今回はその中から、思い出に残っていることを公開しよう。

人間の記憶と言うのは実にあいまいなもので、記録を付けた直後は鮮明でも数週間かするとかなり薄らいて来る。 まして数年もたつと、すっかり忘れていて、記録を見てやっと思い出す有様で、たとえ記憶に残っていても、意外に不確かなものが多い。 ところが、時として強烈に記憶に残り、忘れることが出来ない思い出と言うのもある。

釣りの場合は二つに分けられる様だ。 一つは、生まれて初めて魚を釣った時。 これは、その後同じことを繰り返して行く内に感激が薄くなり、不確かなものとなる。

そんな状態の所に、今まで経験したことの無いことが起きると、たちまち、強烈なカルチャーショックを伴って、頭の中に焼付られることとなる。 これが二つ目。

よく、釣り人がしゃべるときは、両手を縛ってしゃべらせろ、と言うがこれは時と共に釣った魚が大きくなるからで、日本で魚拓が発達したのはここらが原因かもしれない。

それはさておき、一度強烈な経験をすると、もう一度簡単に出会えるのではないか、と思ってしまったり、あるいは逆に体験したことを誇張して記憶してしまうのが人間である。 そのためとんでもない思い違いをしたり、幻を追い掛けたりする場合がある。

こんな時、コンピュータは非情である。 記録を探して見ると、毎年起こっているが、例の少ないことを、初めて体験したものだから、オーバーに言い立てていることなどは、たちどころに判明してしまう。 それでも、10年も記録を取り続けてせっかくのチャンスを、みすみす見逃していたり、ここ2,3年の内では、かなり珍しいこと、などが分る。

よく日本では、スーパー・ハッチは無いなどと、平気で言い出したり、本に書いたりしている人がいるが、それはとんてもないことである。

まちがいなく、ここ東北地方でも起きている。 だだ、確実に言えることは、ほとんどの人が見るチャンスに巡り会えないだろう、ということである。 小さいハッチなら、時期になれば毎日どこかで、夕方に始まるので、この頃イブニング・ライズを狙いに行った人なら誰でも出会えるが、スーパー・ハッチは一つの場所では年に1回、それも僅か15分程の出来事では、目撃するのは難しいことといえる。

この千載一遇ともいえるスーパー・ハッチを、フライ・フィッシングをやり始めた11年程前、目撃した事がある。

5月の末のある日、イプニング・ライズを狙うべくポイントに入っていた。 前々日まで、あれ程釣れた魚が、この日はまるで釣れず、いくらフライを変えてもポイントを移ってもライズが無かった。 そして、日が暮れかかった頃、一斉にあちこちの水面から、カゲロウがハッチを始めた。 あっ、と思う間もなく、あたり一面、雪が舞う様にカゲロウに取り囲まれ、やがて集団のまま移動して行った。 その間僅か15分位の出来事だった。 たったこれだけのことだが、毎年この頃を境に、何かが変った様だと、5年程たってから気がついた。

その後、毎年この時期に報告されて来るデータから、かなり大きな変化があることが、記録を調ベて行く内に、浮かび上がって来た。

一つは、それまで釣れていたのが渕か、あるいは流れのゆるやかな瀬だったのが、かなり急な、瀬のポイントでもライズをするようになった。

二つ目はこの日を境に、釣れるフライ・パターンが、すいぶん変ってしまっていた。

このスーパーハッチを目撃した時は、まだまだ経験不足で、あまり感激はなかったのだが、後で又とないチャンスだったと知ってから、もっと詳しく観察しておくべきだったと後悔している。

正確な発生日を予想出来ないのでその後、再びスーパー・ハッチに出会う機会に、残念ながら恵まれていない。 ただ毎年この時期を境にして釣れる状況が大きく変わるので、今では逆にフライ・パターンが変わったことと、魚が瀬に出ることでスーパー・ハッチがあったことを推測している。

又、このことが原因で、毎年多くの人の協力を頂いて、正確な記録を残していこうと、思い立った。 今後データが蓄積されるにつれて、アメリカのカンパラ・ハッチの様に予報を出せるかもしれない。

この時期に釣り場に入った人は、僅か数日の差で、釣り場の印象を大きく変えてしまう。 ある人は、あそこのポイントは「物凄く魚が濃い」と言うし、別の人は同じポイントを「全然釣れない」と言いだす。 大釣りを体験した人は、翌年同じ場所にやって来て、スーパー・ハッチが終った直後の、まるで釣れないポイントに入って「去年までは釣れたのだが、ここも魚がへった」とぼやきだす。 はたで、事情を知っていて、だまって見ていると誠に面白いのだが今後誰かが、スーパー・ハッチに出合うチャンスがあった時のために、今回公開することにした。

このスーパー・ハッチが下流では毎年秋に起こる。 毎回のことではないが、カゲロウの屍骸が国道4号線に掛かっている橋の上に降り積りスリップ事故の原因になるので、道路管理事務所から掃除に出た、という新間記事が、過去10年の間、私の記録では2度あった。(三浦剛資)

(「北の釣り」1985年10/11月号 No.41 P43-44掲載)

Copyright (c) 三浦剛資, 1985. All rights reserved.

フライフィッシング内緒話 第7回 東北を訪れたフライマン達2010/04/24 08:03

フライ・フィッシングをやろうとした時、身近にやっている人がいなければ本で得る知識が唯一のものとなる。 これが曲者である。 本を書いた本人には、まるで悪気は無いのだが、往々にして誤解を招く。

例えば、キャスティング。 どの本を読んでも、書いてあることは全て正しいのだが、絶対に分らないのがスピード。 特に、「ここで素早く竿を振り降ろし」などと書いてあればまるで親のかたきを見つけた侍のごとく、目にも止まらぬ早さで振り回す。 何かの機会にキャスティングをお見せすると、10人の内10人までが「ずいぶんゆっくり振るのですね」と言われる。

次に、どの本を見ても書いていないのが川の歩き方。

釣り場に行った時、フライ・フィッシングも渓流の釣りである以上、川の歩き方は、大事な事の一つである。

キャスティングについては、不必要なことまでくどくどと書いているくせに川の歩き方には、一言も触れていない。 最近では、彼等は書かないのではなくて、書けないのではないかと、疑い始めている。

この辺のことは、餌釣りやテンカラ(和式毛針)をしている人で、ベテランと呼ぶに相応しい人は、当然心得ていて釣り場で出合った時は、「流石」と思わせてくれる。

ところが、本で読んだ知識だけで他の釣りの経験がまったく無く、フライ・フィッシングが初めての釣りという人は、ここいらがまるで経験不足である。 本には書いていないが多少ウエーディングについて述べている程度では、本を読んだ本人が重要性を全然理解することが出来ない。 それどころか、自分の読んだ本が全てだと思い込み始めたら、事の重大さに気づくまで、かなりの期間を必要とする場合が、この件に限らず、多々ある。

それに加えて、ラインを遠くに飛ばせると思うから益々歩き方がぞんざいになる。 さらに、本を書く人までが、キャスティングを強調するあまり、どうしても表現が大袈裟になるきらいがある。

フライ・フィッシングと云えども最終目標は魚を釣ることである。 ましてや魚が釣れなくともラインを振っていれさえすれば満足する、とまでいいだせば、これほど釣り具を作っている連中をバカにした表現はないだろう。 人の一生を費やして竿を作り、ハックルを改良し、針を作るのは、物好きなブランド好みの連中の為ではけっしてないのだから。

さて、日本のフライ・フィッシングが本当に盛んになったのは、ここ数年以内であることを考えれば経験不足なのも無理からぬことかもしれない。 それも、書いた連中がまだまだ経験不足の時代に書いた本が、現在でも店頭に並べられていると考えれば合点がいく。

その点、アメリカやイギリスのフライ・フィッシングは、歴史があるので50年以上の経験者が大勢いる。 そんな連中と初めて会った時は、こちらも無我夢中なのでキャステイングを見るのがやっとでも、2度、3度と会う内に、だんだんと要点が分ってくる。 しかも、かれらはけっして派手なことはして見せない。

見せかけだけの、めったに釣り場で使うことの無いキャスティングをして初心者を惑わす様なことは、絶対にやらない。 そのため、見る目が無いと「本当に彼等は世界を回っているのか」と思ってしまうのは、1人や2人では無いはずである。

ところが、こちらが現場の経験を積んでゆくにつれ、彼等の実力が見えて来る。 キャスティングの技術だけではなしに、釣りに対するポリシーなども分って来る。 そして、「なるほど、この人達は、世界に通用する技術を持っている」と、感心させられる様になる。

そんな連中が時々東北を訪れては我々に手解きをしてくれている。

初めて、東北の地を訪れたのは、レオン・チャンドラーである。

彼は、単なるデモンストレーターやトーナメント・キャスターと違いアメリカの文化を世界に広める目的で、アメリカの商務省から委託された、民間大使の肩書を持っていた。

その為、西側諸国のみならず、フライマンとしては唯一東側(共産国)でフライ・フィッシングのデモンストレーションをした人として知られている。

当時、何かにつけて、日本はフライ・フィッシングをする場所が無いと言われていた。

釣りの本を読んでも、フライ・フィッシンクの場所は、湖か大きな川に限られていた。

そこで、思い切って彼を渓流に連れて行った。

「近くに川があってヤマメがいる。それをフライで釣りたいから技術を教えて貰いたい」と、思ったからである。 現場がそばにある我々にとっては、当り前の話である。

現場に着いた彼は、辺りを見回し一度後ろを確認しただけで、すかさず「ヤブ」を背にしてロッドを振り始めた。 ラインは一度もヤブにからむことなく延びていった。 そして、彼が「このあたりを見ていろ」と言った場所で、正確にリーダーの先端が延びきった次の瞬間、まるで本物の虫が水面に落ちる様に、フワリと毛針が着水した。

おもわず、その場に居合わした一同から「ほー」と、溜息がもれる。 当時我々が、最も苦手としていたヤブを背にしてのキャスティングを、まっぱじめに始めたのである。

この日彼は「無理に遠くに飛ばすな、静かにポイントに近づけ、プレゼンテーションはソフトに、正確に」と、丸一日、何度も繰り返した。

そして、アメリカで一番釣り人が多いロッキー山脈の西側で、ポピュラーな釣り場は、川幅も狭く、流れも強く、ヤブ川も多いが、けっして不適当な場所では無い。 しかも、釣れる魚の平均サイズは8インチから10インチである、と教えてくれた。

したがって、日本の川が、フライ・フィッシングをするのに不適当である理由は無い、と言った。 さらに、アチラの本には、大きな魚の写真がずいぶん載っているではないか、と言うと実に明快な答が返って来た。 「珍しいから金を出して本を買う。 自分が釣ったのより小さければ、わざわざ金は出さないだろ」と。

今でも、時々フライ・フィッシングは、湖か大きな川でしか出来ないと思っている人に出合うが、この時点で、彼から明確な答を得ていたのである。

1978年のことである。

レオン・チャンドラーに関してはこの時、もう一つ感心させられたことがあった。

まだ、新幹線が出来る前だったので仙台空港まで迎えに行った。 そして、仙台に向かって走りだし、名取川の2キロ程手前で「まもなく、川がある」と、彼が言いだした。

勿論、仙台に来るのは初めてだし、こちらも予備知識を、彼に与える暇はなかった。 おそらく回りの景色からさっしたのだろうが、大した観察力だと感心させられた。

その後、何度か来日しているが、1984年に再び東北を訪れ、彼は酒田でキャスティングを見せてくれた。 このとき、事情があって、私は酒田に行けなかったのだが、帰りにわざわざ仙台まで回って表敬訪問してくれたのには恐縮した。(三浦剛資)

(「北の釣り」1985年10/11月号 No.41 P42-43掲載)

Copyright (c) 三浦剛資, 1985. All rights reserved.

フライフィッシング内緒話 第6回 「幸福の青い卵」の話2010/04/24 08:02

フライフィッシングで釣りをしている者にとって毛針は大事な物の一つだが、これを巻いている材料はマテリアルと呼ばれ色々な物が使われている。 鳥の羽根に加えて、狐、イタチ、モグラ、鹿、牛、等の獣毛。 さらに最近では化学的に合成された繊維も使われていて、フライを巻く為の、色取りどりの織維が発売されている。

それでも気に入ったマテリアルや色が揃わない場合には、ありとあらゆる物が使えないかと捜しまくる。 そのうち回りの物、総てがマテリアルに見え始め、ズボンを買いに入った店の試着室のカーペットをむしり取って来たり、飼っている小鳥の羽根をむしったりということになる。 そのあげく釣りに行くよりマテリアルを捜すのに血道を上げることになってしまい、釣れた実績より持っていることの方が値打がある、と言い出す本末転倒も甚だしい者まて現われることとなる。

ここまでならなくともマテリアルというのは、やはりフライマンにとっては大事なことである。

ところで、この世の中に青い卵を産むニワトリがいたらあなたは信じるだろうか。

ドライフライを巻く為に絶対必要な毛、「ハックル」はニワトリの羽根である。

おそらく昔は、そこらにいたニワトリの中からいい羽根を見つけては使っていたのだろうが、世界的にフライマンの数がふえてくるにしたがってハックルが不足してきたのと、自然にはなかなか存在しない色をほしがり始めたので、各種のニワトリをかけあわせては、ハックルを品種改良して造り出すようになった。 改良の対象は当然「羽根」である。 色、サイズ、弾力、長さ、等が対象になるが、鳴き声や肉質はまるで関係ない。 まして親鳥が産む卵の数や色など、どうでもいい話である。

ハックルになるニワトリが、グリズリーだろうが、ブラウンだろうが卵の色が取立てて奇抜な色というのは無い。 元々保護色に出来ているのだから派手な色が着くのがそもそもおかしいので、たいていは白か茶と決っている。

普段店先で見ることが出来るのは白が多いが、受験シーズンになると縁起をかつぐことから茶の卵を多く見掛ける。 近頃は円い物に印刷が簡単に出来るので、日付が入ったり養鶏場の名前が入ったりしているが、その内卵の上にコマーシャルが印刷されるのではないか、とさえ思えてくる。

ハックルは、ニワトリに品種改良を重ねて造り出した産物である。 苦労をいとわず、10年以上の歳月をかけ、只「もう1匹釣りたい」という切なる思いが今日のハックルを造りだしたといってもいいすぎではあるまい。 もしこれが「オレはあいつと違うハックルを持っている」というだけの理由でならここまではならなかっだろう。

今、養鶏業者はたいへんな競争だそうである。 有精卵を売出したり、放し飼いをセールス・ポイントにしたり、少しでも他と違う卵を売り出そうと必死である。 そんな最中に青い卵を産むニワトリが出来てきた。 このチャンスを見逃すはずがない。 業界大手のK養鶏が、マッチ・ザ・フライにライズしてきたヤマメの様に、ぜひゆずってほしいと乗り出して来た。

その後、この鳥はさらに品種改良を加えられ、今では緑の卵を産むニワトリも出来上がっている。 近いうちに我々消費者の前に、青や緑の卵が姿を現わす筈である。

もし、あなたがどこかの店の前で青い卵に出会った時、ぜひ思い出してほしい。

その卵は、あなたに「大漁」という幸福をもたらすハックルが、姿を変えているのだ、と。(三浦剛資)

(「北の釣り」1985年9月号 No.40 P76掲載)

Copyright (c) 三浦剛資, 1985. All rights reserved.

フライフィッシング内緒話 第5回 「あるライバル」のお話2010/04/24 08:02

この世の中、学校でも会社でも、仕事でも遊びでも、何にでもライバルは存在する。

当然、釣りの世界でもいないわけが無い。 このお話はそんなライバルどうしのお話である。

MさんとKさんの2人のフライマンがいる。

この2人は何かにつけて対照的である。 Mさんは痩せていて、川ではポイントからポイントへとよく歩くタイプ。 Kさんは肥っていて、ひとつのポイントをじっくりとせめるタイプ。 年はどちらも30代、釣歴はどちらも10年以上。 釣り方は違っていても、2人共名人と呼んでも異論は無い。

これにTさんが加わって、5月のある日3人で遠征に出ることになった。 前日の夜遅く出発し、Tさんが車を運転することになった。

250キロ近く走って、現場に着いたのは朝の7時頃で、運転を続けたTさんは車の中で寝ることにし、MさんとKさんの2人が身仕度も早々にポイントへと入った。

MさんはKさんに「オレ下の方から攻めるよ」と言って、下流のポイントへと向かった。

Kさんはいつも通りじっくりねばるつもりだったので、最高のポイントを見つけると、腰を落ち着けた。 ゆるい流れの、底に大きな石が沈んでいる、浅い渓だった。

この日は天気がよすぎたせいか朝の冷え込みがきつく、日が高くなってもなかなかライズがなく、MさんもKさんも9時近くまで魚の姿を見ることが出来なかった。

1キロほど下流から川におりたMさんの姿がKさんの目に入ったのはそんな時だった。

「どれぼちぼちオレも場所を変えようか」とKさんは思ったが、Mさんの釣果を聞いてからにしようと思い彼の来るのを待っていた。

やがてMさんがKさんのそばに来て「どう、釣れた?」と聞いた。 Kさんは「だめ、朝からこの場所でやっているけど、時々小さなライズがあるだけだよ。場所を変わるから、やってみたら」と答えた。

Mさんは早速にロッドを振り出してフライをさんざんKさんがやっていたポイントに、そっと落した。

その第1投に、なんと47cmのイワナがフッキングした。 掛けたMさんにとっても、そばで見せつけられるはめになったKさんにとっても初めて見る大物だった。

しばらくして、Tさんも起き出してきて3人で昼頃まで、ねばりにねばったが、とうとうその日は大物1匹だけの釣果で終ってしまった。 いざ帰る段になって、魚をどうするかについて3人て議論になった。

大物を目の前で釣られて、くやしがるKさん「目障りだから焼いて食おう」

寝ていて、現場を見ていないTさん「スモークにして、帰って皆に見せてから乾杯しよう」

興奮の覚めないMさん「何が何でも絶対、剥製にする」

結局、釣った本人の意見で剥製にしてほしいと冷凍になった魚が私の店に送られて来た。

3月程して、待ちに待った剥製が出来上り、Mさんの元に届くと早速壁に飾っては、来る人ごとに自慢することとなった。 おさまらないのはKさんで、日が立つにつれてくやしさが倍加する。 ましてMさんの家に遊びに行くたびに、これみよがしの剥製を見せつけられるとなおさらである。 近くの川ではないからおいそれと行くことは出来ないが、それでもとうとう執念で39cmのイワナをものにすることが出来た。 多少小さいかと思いながらも、Mさんの剥製に対杭する為、冷凍のイワナが私の店に送られて来たのは、その年のまもなく禁漁になる頃だった。(三浦剛資)

(「北の釣り」1985年9月号 No.40 P75-76掲載)

Copyright (c) 三浦剛資, 1985. All rights reserved.

フライフィッシング内緒話 第4回 「白も黒も元は縞々」という話2010/04/24 08:01

フライフィッシングをやり始めて暫くすると、多くの人が手掛けるのがフライタイイングである。 理由は色々あるが、1番の理由は経済的なというのが多い。

初めに揃えるマテリアルはたいていが茶色のハックル、そして次に必ず欲しくなるのが、白と黒の縞々模様のあの有名なグリズリー。 最近はカラーで写真が出ているからだれでもわかるが、英語の辞書と首っ引きでフライを巻いていた頃はブルーダンと共にわからないカラーのひとつだっだ。 灰色グマがなぜハックルになるのか不思議だったしネズミ色がなぜブルーダンというのかも不思議だった。

グリズリーと言う呼び方は世界的にフライマンにしか通用しない呼びかたで、養鶏家にはプリモスロックと言わないとわかってもらえない。

このプリモスロックを子供の頃飼っていたことがある。 当時はこの鳥が最高のハックルになるとは思ってもいなかったし、うちのニワトリはよそのと色が違うとしか思わなかった。 この鳥は白色レグホンと違って、自分で卵を温めるので雛を取ることができた。 生まれた時は白と黒の大きなまだらで、暫くするとウブ毛が生え変って、だんだん縞模様になってくる。 雄は子供の背丈程あり、気性は非常に荒かった。 そんなことがあったので初めてグリズリーを見た時は一目でわかった。

さて、1枚目のグリズリーが残り少なくなって、2枚目を買う頃になると、ハックルを見る目が変って来てグリズリーにも種類があることに気がつく。 縞の幅が狭いのとか、全体がぼけているとかなどである。 そして色の濃い目のグリズリーはブラウンと、薄いのはジンジャーとミックスすることを覚える。

数多くのハックルを見て気がつくのは、1枚として同じ物が無いことである。 さらに次に欲しくなるのがブルーダンやブラックそれにホワイトである。

ところでこれらのハックルが全て同じ親から生まれてくるということを御存じだろうか。 特にホワイトもブラックも同じ親だといえば、まるで黒を白といいくるめるような話になってしまう。 勿論まるっきり同じ親から生まれるわけでは無くてどちらも親はグリズリーを品種改良した鳥だ、といいたいのである。

グリズリーのあの縞は当然遺伝によるものだが、時々遺伝子の突然変異が出る。 縞にする遺伝子が欠落すると白と黒が入りまじってブルーダンになるのが出たりするし、縞を作るのが強くなったり弱くなったりすると、黒になったり白になったりしてしまう。 単純には言えないが、現在ではかなりわかって来ている。 だからグリズリーから作ったホワイトをよく見ると、かすかに縞が見えるし、はなはだしいのは、白とダンが入りまじって、その名もスプラッシュドホワイト(泥がはねた白)というのまである。

さて、グリズリーなら全てハックルに使えるかというと、これはとんでもない話で、現在ハックルとして売られているのは、1羽残らず只フライを巻く為にだけ品種改良され、かつ選別され、飼育された雄鳥ばかりである。

このグリズリーにとりつかれ、自分で品種改良を始めた人がいる。 10年程前から手掛けて、これまで既に1000羽以上の雛をかえしてきている。

先日仙台でフライキャスティングスクールをした時に来られた、デモンストレーターの小平高久氏である。 この話も殆ど彼から聞かせてもらった話である。 今も100羽以上の鳥を飼っていて長期間留守に出来ない生活をしている。 やっと親が出来たら犬にかみ殺されたり、イタチに食われたり、すいぶん苦労したがまだ納得できる物は数が少ないそうである。(三浦剛資)

(「北の釣り」1985年9月号 No.40 P74-75掲載)

Copyright (c) 三浦剛資, 1985. All rights reserved.

フライフィッシング内緒話 第3回 「途中経過をお知らせします」という話2010/04/24 08:01

今年1985年でカレンダーは10冊目になった。 この間、データを提供してくれた人は数知れず、と言いたいが、そこはコンピューター、一発で答を出してしまう。 「5月5日現在、延2215件。」初めの3年程は年間20件程度のデータしか入ってこなかったが、4年目頃から増え始め、最近は年間300件以上のデータが入ってくるようになった。 この頃では皆さんなれたもので、自分のデータを報告すると同時に他人のデータもしっかり聞いて帰るようになった。

ただあくまでも GIVE and TAKE を守らないと、データを提供してくれなくなるので、これは守っている。 したがって、記事の中で、コンピューターが出した答をそのまま載せることが出来ず、一部を伏せている部分もあるので、御了承願いたい。

さて、いつが一番釣れるか、などというのはやぼな話なので、別の角度から見てみよう。

フライマンの中には、イブニングライズを得意とする人と、モーニングライズを得意とする人と分れるようであるが、オレは朝が弱い、と言うのは別にして、実際どちらが有利かデータを追って見た。

休日祭日をさけて平日だけのデータで分析してみると、魚が自然の状態になるので、特にはっきりしてくる。 その結果、面白い答が出た。 太平洋側と日本海側とで違うのである。 言い直せば、川が西から東に流れるか、或いは東から西に流れるかで、結果が逆さになってしまったのだ。

昔大阪に住んでいたことがある。 ここにいると東西南北の感覚が東北地方と違ってくる。 一番北はどこまで行ったことがありますか、と聞くと舞鶴とか北陸とかいい出すし、東はと聞くと東京とか名古屋といいだす。 同じことを仙台で聞くと、北は北海道だし南は東京だったり沖縄だったりする。 日本が弓形に曲がっているからなのだが、今でも大阪に行くと話がずれる時がある。

さて、東北地方のほぼ真中を奥羽山脈が南北に走り、川はそれぞれほぼ西と東に流れる。 山の東側つまり仙台側では、モーニングライズの時間が長く、午前11時頃まで続くが、イブニングライズは、山影に日が落ちなければ始まらない。 だから時期によっては僅か30分程で終ってしまう。 ところが日本海側、特に山形県の庄内地方の川では午後3時頃から始まって、季節によっては8時すぎまで、えんえんと続くことがある。 初めは、時期的な特異現象かと思ったが、1件だけではなく次々にデータが入ってくるとそうとばかりいえなくなってきた。 最近では、はっきりと結果がでてきて、なぜこうなるかを考えなければならなくなってきた。

一つの考えだが魚は流れに対して頭を上流に向けている。 これは東に流れている川では、夕方に逆光になるから、目の前にフライが落ちても、たぶん見えないか或いは非常に見えにくい状態になる。 日が落ちて、魚の目がなれてこないと、フライを見付けることが出来ないのではないかと思う。 ところが、西に流れている川では順光になる。

この、時間の関係と最高の季節とが加わると、5人でライズした回数が300回以上、フッキングさせた魚が100匹以上などという信じられないことが起きる。

ところが、くやしいことにこの時、私は釣り場に行っていなかった。

ひたすら、この連中が帰ってくるのを晩飯のおあずけをくいながら待っていた。 待つこと数時間帰ってきたのは10時近くで私と顔を合せるなり得々と結果をしゃべり始めた。 その後なんどかこの場所に通ったがこの時程の大釣りは経験していない。 日本海中部地震があった昭58年のある日の出来事である。(三浦剛資)

(「北の釣り」1985年8月号 No.39 P46掲載)

Copyright (c) 三浦剛資, 1985. All rights reserved.

フライフィッシング内緒話 第2回 「コンピューターで記録を整理したら」という話2010/04/24 08:01

1976年の釣りシーズンから、出掛けた時の記録を付けている、と言ってもそんなに大袈裟なことではなく、初めは釣りカレンダーに、自分と同行者の分をメモ程度に書き留めているだけだった。 ところが年を追うごとに協力者が現われ、今では毎年かなりの数の記録が取れる様になってきた。 釣れた時は帰りに、釣れなかった時は、後で報告が入って来る。

こうなって来ると色々面白いことが見えて来る。 まして同時に二つの川で釣ることは出来ないのだからこれは貴重な記録になってくる。 こちらの川では全員オデコなのに、山一つ越したあちらの川では大釣り、という結果も入ってくる。 それらの原因を探るのに、この記録はおおいに役立っている。

最初は釣れた記録だけ取っていたがしばらくしてから、釣れなかった時の記録も取り始めた。 これが後で非常に役立つ。

記録の整理には、人間がやるとどうしても主観が入るのでコンピューターを使用した。 全てのデータをコンピューターにかまわずインプットしていった。

最近、新間の記事などでよく見掛けるので、ご記憶のむきもあろうと思われるが、いわゆるデータベースを作った。 それを、コンピューターのプログラムを使って、特定の条件で検索してやると、思いもがけない結果が出てくる。

使用したコンピューターは、16ビットで、ユーザーメモリーは384Kバイト、それにフロッピーディスクが2台付いた、PC-9801である。 それと、オペレーティングシステムは、MS-D0Sを使用した。

釣りの他に、もう一つの趣味がコンピュータ、という人が最近は結構多いので、自分もやってみようという人の為に申し上げると、フロッピーデスクドライプとオペレーティングシステム、これらが揃ってさえいれば、勿論8ビットでも出来るし、この場合のオペレーティングシステムは、CP/Mを使えばよい。

但し、自分で、それもBASICでプログラムを組んで、データはカセットテープで、などというのなら絶対におやめになったほうがよい。

プログラムの虫捜しで時間を潰すより、川で虫捜しをしたほうがよっぽどよい。

尚、この原稿もコンピューターをワープロのソフトで走らせて書いている。

さて、結果については次に書くことにして、どのようなデータを記録していたかについてお話しておこう。

年月月:カレンダーに書き込むのだから、別に若労は無い。
同行者:万が一の時、アリバイを証明してもらえる。
場所:本人が確認出来ればいいが1年もすると忘れる。 思い出す程度正確に。
魚種:ヤマメ、イワナなど。
サイズ:釣り人用の物差しは記録性が無い。 逃げたのは大きめでもキープしたのは正確に。
時間:夜明程けに近い朝、殆ど昼、完全に夕方、程度に。
フライ:初めて釣れたフライはイラストも書く。 フックサイズと色は必ず。
水温:できれば天候と共に、ヤマブキが咲いていたとか。
その他:釣りに行かなかった時でも天気が大きく変った時は記録した。(三浦剛資)

(「北の釣り」1985年8月号 No.39 P45-46 掲載)

Copyright (c) 三浦剛資, 1985. All rights reserved.

フライフィッシング内緒話 第1回 「古けりゃ良いとはいわないが」という話2010/04/24 08:00

私がフライフィッシングに関係するようになったのが1972年だからもう13年程になる。 もっとも物心がついた時に目の前にフライロッドがあったから、その時から数えれば30年以上になる。

店の隅に桐箱に入った竿があった。 明らかに子供の目にも他の竿とは違う竿で、気になるもののひとつであった。 祖父に聞くと、進駐軍相手にお土産に売っていた物の売れ残った分、とのことだった。

六角竿(バンブーロッドとは断じて呼んでいなかった)がまだ珍しい頃で、日本人は買わなかったが本国に帰る進駐軍には売れに売れたそうである。 残念ながらその光景は私の記憶にない。 ただ売れたのは竿だけで、リールもラインもさっぱり売れ無かったそうである。 調子についてはおして知るべしで、もし良ければ今頃世界的なバンブーロッドのメーカーが日本に残っていたろうにと思われる。

ラインはたった1本だけ残っていたのを記憶している。 芯の入った袋打ちの紐があって、もっぱらホ先の蛇口の修理に使っていた。 今にして思えばシルクのレベルラインであった。 あの当時輸入品であるはずはないので日本のどこかで作っていたのだと思われる。 親父に聞いた話では2,3度進駐軍の連中が、フライで釣りをしているのを見たことがあるそうだが、地元の人で彼等からフライを教えてもらった人はいなかったようだ。

フライ用品を扱っている店がまだ少なかった頃、同業者が北海道に集まったことがある。 その時に聞かされた話では内地では講和条約が結ばれると進駐軍が在日駐留軍と名前が変り、一部を残して本国に引き上げたが北海道では遅くまで残っていたので、彼等からキャスティングを教えてもらったり、PX(米軍キャンプの中にあって生活必需品から無修正のプレイボーイまで売っている米軍の家族しか買うことが出来ない店)からフライラインやマテリアルを買ってもらったりして、かなりの人がフライに接した様であった。 そんな背景があったから、当時の北海道の層の厚さにびっくりさせられたりしたものだった。

古い話と言えばこんな話もある。 私の店で取り扱っている英国製品の日本代理店に、ある日1台のフライリールの修理依頼が来た。 調べて見ると、そのリールは1898年製で、既に生産中止になっているモデルだった。 依頼主の話を聞くと、お祖父様が当時英国勤務で、むこうの連中と付き合うため、ゴルフか乗馬、あるいはフライフィッシングをする必要から、ロンドンで買った物だった。 それが、長いことお蔵の中で眠っていたのを、孫の代になって見付け出したが、一部が破損していたため修理が出来るものならと依頼されたものだった。 おそらくその方は日本人としては、最も古くフライフィッシングに接した人だと思われる。 又、このメーカーは英国王室御用達である為、今上陸下がお若い頃ヨーロッパを御旅行された折フライフィッシングをされたという記録が残っている。 日本の宮内庁に記録があるかどうか不明だが、日本人がフライフィッシングをしたという一番古い記録だろう。 因に先程のリールは、無事修理が完了してお客様の手に戻った。 ところがこの話はさらにおまけがついていて、このメーカーからは修理完了のインボイスと共に、次のメッセージが付いて来た。

「第一次大戦の時は多少ごたごだがあって金型を一部失っているが、第二次大戦の時は防空壕に金型を避難してドイツのV1号から守ったので修理は可能である」と。(三浦剛資)

(「北の釣り」1985年8月号 No.39 P44-45 掲載)

Copyright (c) 三浦剛資, 1985. All rights reserved.