フライフィッシング内緒話 第5回 「あるライバル」のお話 ― 2010/04/24 08:02
この世の中、学校でも会社でも、仕事でも遊びでも、何にでもライバルは存在する。
当然、釣りの世界でもいないわけが無い。 このお話はそんなライバルどうしのお話である。
MさんとKさんの2人のフライマンがいる。
この2人は何かにつけて対照的である。 Mさんは痩せていて、川ではポイントからポイントへとよく歩くタイプ。 Kさんは肥っていて、ひとつのポイントをじっくりとせめるタイプ。 年はどちらも30代、釣歴はどちらも10年以上。 釣り方は違っていても、2人共名人と呼んでも異論は無い。
これにTさんが加わって、5月のある日3人で遠征に出ることになった。 前日の夜遅く出発し、Tさんが車を運転することになった。
250キロ近く走って、現場に着いたのは朝の7時頃で、運転を続けたTさんは車の中で寝ることにし、MさんとKさんの2人が身仕度も早々にポイントへと入った。
MさんはKさんに「オレ下の方から攻めるよ」と言って、下流のポイントへと向かった。
Kさんはいつも通りじっくりねばるつもりだったので、最高のポイントを見つけると、腰を落ち着けた。 ゆるい流れの、底に大きな石が沈んでいる、浅い渓だった。
この日は天気がよすぎたせいか朝の冷え込みがきつく、日が高くなってもなかなかライズがなく、MさんもKさんも9時近くまで魚の姿を見ることが出来なかった。
1キロほど下流から川におりたMさんの姿がKさんの目に入ったのはそんな時だった。
「どれぼちぼちオレも場所を変えようか」とKさんは思ったが、Mさんの釣果を聞いてからにしようと思い彼の来るのを待っていた。
やがてMさんがKさんのそばに来て「どう、釣れた?」と聞いた。 Kさんは「だめ、朝からこの場所でやっているけど、時々小さなライズがあるだけだよ。場所を変わるから、やってみたら」と答えた。
Mさんは早速にロッドを振り出してフライをさんざんKさんがやっていたポイントに、そっと落した。
その第1投に、なんと47cmのイワナがフッキングした。 掛けたMさんにとっても、そばで見せつけられるはめになったKさんにとっても初めて見る大物だった。
しばらくして、Tさんも起き出してきて3人で昼頃まで、ねばりにねばったが、とうとうその日は大物1匹だけの釣果で終ってしまった。 いざ帰る段になって、魚をどうするかについて3人て議論になった。
大物を目の前で釣られて、くやしがるKさん「目障りだから焼いて食おう」
寝ていて、現場を見ていないTさん「スモークにして、帰って皆に見せてから乾杯しよう」
興奮の覚めないMさん「何が何でも絶対、剥製にする」
結局、釣った本人の意見で剥製にしてほしいと冷凍になった魚が私の店に送られて来た。
3月程して、待ちに待った剥製が出来上り、Mさんの元に届くと早速壁に飾っては、来る人ごとに自慢することとなった。 おさまらないのはKさんで、日が立つにつれてくやしさが倍加する。 ましてMさんの家に遊びに行くたびに、これみよがしの剥製を見せつけられるとなおさらである。 近くの川ではないからおいそれと行くことは出来ないが、それでもとうとう執念で39cmのイワナをものにすることが出来た。 多少小さいかと思いながらも、Mさんの剥製に対杭する為、冷凍のイワナが私の店に送られて来たのは、その年のまもなく禁漁になる頃だった。(三浦剛資)
(「北の釣り」1985年9月号 No.40 P75-76掲載)
Copyright (c) 三浦剛資, 1985. All rights reserved.
当然、釣りの世界でもいないわけが無い。 このお話はそんなライバルどうしのお話である。
MさんとKさんの2人のフライマンがいる。
この2人は何かにつけて対照的である。 Mさんは痩せていて、川ではポイントからポイントへとよく歩くタイプ。 Kさんは肥っていて、ひとつのポイントをじっくりとせめるタイプ。 年はどちらも30代、釣歴はどちらも10年以上。 釣り方は違っていても、2人共名人と呼んでも異論は無い。
これにTさんが加わって、5月のある日3人で遠征に出ることになった。 前日の夜遅く出発し、Tさんが車を運転することになった。
250キロ近く走って、現場に着いたのは朝の7時頃で、運転を続けたTさんは車の中で寝ることにし、MさんとKさんの2人が身仕度も早々にポイントへと入った。
MさんはKさんに「オレ下の方から攻めるよ」と言って、下流のポイントへと向かった。
Kさんはいつも通りじっくりねばるつもりだったので、最高のポイントを見つけると、腰を落ち着けた。 ゆるい流れの、底に大きな石が沈んでいる、浅い渓だった。
この日は天気がよすぎたせいか朝の冷え込みがきつく、日が高くなってもなかなかライズがなく、MさんもKさんも9時近くまで魚の姿を見ることが出来なかった。
1キロほど下流から川におりたMさんの姿がKさんの目に入ったのはそんな時だった。
「どれぼちぼちオレも場所を変えようか」とKさんは思ったが、Mさんの釣果を聞いてからにしようと思い彼の来るのを待っていた。
やがてMさんがKさんのそばに来て「どう、釣れた?」と聞いた。 Kさんは「だめ、朝からこの場所でやっているけど、時々小さなライズがあるだけだよ。場所を変わるから、やってみたら」と答えた。
Mさんは早速にロッドを振り出してフライをさんざんKさんがやっていたポイントに、そっと落した。
その第1投に、なんと47cmのイワナがフッキングした。 掛けたMさんにとっても、そばで見せつけられるはめになったKさんにとっても初めて見る大物だった。
しばらくして、Tさんも起き出してきて3人で昼頃まで、ねばりにねばったが、とうとうその日は大物1匹だけの釣果で終ってしまった。 いざ帰る段になって、魚をどうするかについて3人て議論になった。
大物を目の前で釣られて、くやしがるKさん「目障りだから焼いて食おう」
寝ていて、現場を見ていないTさん「スモークにして、帰って皆に見せてから乾杯しよう」
興奮の覚めないMさん「何が何でも絶対、剥製にする」
結局、釣った本人の意見で剥製にしてほしいと冷凍になった魚が私の店に送られて来た。
3月程して、待ちに待った剥製が出来上り、Mさんの元に届くと早速壁に飾っては、来る人ごとに自慢することとなった。 おさまらないのはKさんで、日が立つにつれてくやしさが倍加する。 ましてMさんの家に遊びに行くたびに、これみよがしの剥製を見せつけられるとなおさらである。 近くの川ではないからおいそれと行くことは出来ないが、それでもとうとう執念で39cmのイワナをものにすることが出来た。 多少小さいかと思いながらも、Mさんの剥製に対杭する為、冷凍のイワナが私の店に送られて来たのは、その年のまもなく禁漁になる頃だった。(三浦剛資)
(「北の釣り」1985年9月号 No.40 P75-76掲載)
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フライフィッシング内緒話 第4回 「白も黒も元は縞々」という話 ― 2010/04/24 08:01
フライフィッシングをやり始めて暫くすると、多くの人が手掛けるのがフライタイイングである。 理由は色々あるが、1番の理由は経済的なというのが多い。
初めに揃えるマテリアルはたいていが茶色のハックル、そして次に必ず欲しくなるのが、白と黒の縞々模様のあの有名なグリズリー。 最近はカラーで写真が出ているからだれでもわかるが、英語の辞書と首っ引きでフライを巻いていた頃はブルーダンと共にわからないカラーのひとつだっだ。 灰色グマがなぜハックルになるのか不思議だったしネズミ色がなぜブルーダンというのかも不思議だった。
グリズリーと言う呼び方は世界的にフライマンにしか通用しない呼びかたで、養鶏家にはプリモスロックと言わないとわかってもらえない。
このプリモスロックを子供の頃飼っていたことがある。 当時はこの鳥が最高のハックルになるとは思ってもいなかったし、うちのニワトリはよそのと色が違うとしか思わなかった。 この鳥は白色レグホンと違って、自分で卵を温めるので雛を取ることができた。 生まれた時は白と黒の大きなまだらで、暫くするとウブ毛が生え変って、だんだん縞模様になってくる。 雄は子供の背丈程あり、気性は非常に荒かった。 そんなことがあったので初めてグリズリーを見た時は一目でわかった。
さて、1枚目のグリズリーが残り少なくなって、2枚目を買う頃になると、ハックルを見る目が変って来てグリズリーにも種類があることに気がつく。 縞の幅が狭いのとか、全体がぼけているとかなどである。 そして色の濃い目のグリズリーはブラウンと、薄いのはジンジャーとミックスすることを覚える。
数多くのハックルを見て気がつくのは、1枚として同じ物が無いことである。 さらに次に欲しくなるのがブルーダンやブラックそれにホワイトである。
ところでこれらのハックルが全て同じ親から生まれてくるということを御存じだろうか。 特にホワイトもブラックも同じ親だといえば、まるで黒を白といいくるめるような話になってしまう。 勿論まるっきり同じ親から生まれるわけでは無くてどちらも親はグリズリーを品種改良した鳥だ、といいたいのである。
グリズリーのあの縞は当然遺伝によるものだが、時々遺伝子の突然変異が出る。 縞にする遺伝子が欠落すると白と黒が入りまじってブルーダンになるのが出たりするし、縞を作るのが強くなったり弱くなったりすると、黒になったり白になったりしてしまう。 単純には言えないが、現在ではかなりわかって来ている。 だからグリズリーから作ったホワイトをよく見ると、かすかに縞が見えるし、はなはだしいのは、白とダンが入りまじって、その名もスプラッシュドホワイト(泥がはねた白)というのまである。
さて、グリズリーなら全てハックルに使えるかというと、これはとんでもない話で、現在ハックルとして売られているのは、1羽残らず只フライを巻く為にだけ品種改良され、かつ選別され、飼育された雄鳥ばかりである。
このグリズリーにとりつかれ、自分で品種改良を始めた人がいる。 10年程前から手掛けて、これまで既に1000羽以上の雛をかえしてきている。
先日仙台でフライキャスティングスクールをした時に来られた、デモンストレーターの小平高久氏である。 この話も殆ど彼から聞かせてもらった話である。 今も100羽以上の鳥を飼っていて長期間留守に出来ない生活をしている。 やっと親が出来たら犬にかみ殺されたり、イタチに食われたり、すいぶん苦労したがまだ納得できる物は数が少ないそうである。(三浦剛資)
(「北の釣り」1985年9月号 No.40 P74-75掲載)
Copyright (c) 三浦剛資, 1985. All rights reserved.
初めに揃えるマテリアルはたいていが茶色のハックル、そして次に必ず欲しくなるのが、白と黒の縞々模様のあの有名なグリズリー。 最近はカラーで写真が出ているからだれでもわかるが、英語の辞書と首っ引きでフライを巻いていた頃はブルーダンと共にわからないカラーのひとつだっだ。 灰色グマがなぜハックルになるのか不思議だったしネズミ色がなぜブルーダンというのかも不思議だった。
グリズリーと言う呼び方は世界的にフライマンにしか通用しない呼びかたで、養鶏家にはプリモスロックと言わないとわかってもらえない。
このプリモスロックを子供の頃飼っていたことがある。 当時はこの鳥が最高のハックルになるとは思ってもいなかったし、うちのニワトリはよそのと色が違うとしか思わなかった。 この鳥は白色レグホンと違って、自分で卵を温めるので雛を取ることができた。 生まれた時は白と黒の大きなまだらで、暫くするとウブ毛が生え変って、だんだん縞模様になってくる。 雄は子供の背丈程あり、気性は非常に荒かった。 そんなことがあったので初めてグリズリーを見た時は一目でわかった。
さて、1枚目のグリズリーが残り少なくなって、2枚目を買う頃になると、ハックルを見る目が変って来てグリズリーにも種類があることに気がつく。 縞の幅が狭いのとか、全体がぼけているとかなどである。 そして色の濃い目のグリズリーはブラウンと、薄いのはジンジャーとミックスすることを覚える。
数多くのハックルを見て気がつくのは、1枚として同じ物が無いことである。 さらに次に欲しくなるのがブルーダンやブラックそれにホワイトである。
ところでこれらのハックルが全て同じ親から生まれてくるということを御存じだろうか。 特にホワイトもブラックも同じ親だといえば、まるで黒を白といいくるめるような話になってしまう。 勿論まるっきり同じ親から生まれるわけでは無くてどちらも親はグリズリーを品種改良した鳥だ、といいたいのである。
グリズリーのあの縞は当然遺伝によるものだが、時々遺伝子の突然変異が出る。 縞にする遺伝子が欠落すると白と黒が入りまじってブルーダンになるのが出たりするし、縞を作るのが強くなったり弱くなったりすると、黒になったり白になったりしてしまう。 単純には言えないが、現在ではかなりわかって来ている。 だからグリズリーから作ったホワイトをよく見ると、かすかに縞が見えるし、はなはだしいのは、白とダンが入りまじって、その名もスプラッシュドホワイト(泥がはねた白)というのまである。
さて、グリズリーなら全てハックルに使えるかというと、これはとんでもない話で、現在ハックルとして売られているのは、1羽残らず只フライを巻く為にだけ品種改良され、かつ選別され、飼育された雄鳥ばかりである。
このグリズリーにとりつかれ、自分で品種改良を始めた人がいる。 10年程前から手掛けて、これまで既に1000羽以上の雛をかえしてきている。
先日仙台でフライキャスティングスクールをした時に来られた、デモンストレーターの小平高久氏である。 この話も殆ど彼から聞かせてもらった話である。 今も100羽以上の鳥を飼っていて長期間留守に出来ない生活をしている。 やっと親が出来たら犬にかみ殺されたり、イタチに食われたり、すいぶん苦労したがまだ納得できる物は数が少ないそうである。(三浦剛資)
(「北の釣り」1985年9月号 No.40 P74-75掲載)
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フライフィッシング内緒話 第3回 「途中経過をお知らせします」という話 ― 2010/04/24 08:01
今年1985年でカレンダーは10冊目になった。 この間、データを提供してくれた人は数知れず、と言いたいが、そこはコンピューター、一発で答を出してしまう。 「5月5日現在、延2215件。」初めの3年程は年間20件程度のデータしか入ってこなかったが、4年目頃から増え始め、最近は年間300件以上のデータが入ってくるようになった。 この頃では皆さんなれたもので、自分のデータを報告すると同時に他人のデータもしっかり聞いて帰るようになった。
ただあくまでも GIVE and TAKE を守らないと、データを提供してくれなくなるので、これは守っている。 したがって、記事の中で、コンピューターが出した答をそのまま載せることが出来ず、一部を伏せている部分もあるので、御了承願いたい。
さて、いつが一番釣れるか、などというのはやぼな話なので、別の角度から見てみよう。
フライマンの中には、イブニングライズを得意とする人と、モーニングライズを得意とする人と分れるようであるが、オレは朝が弱い、と言うのは別にして、実際どちらが有利かデータを追って見た。
休日祭日をさけて平日だけのデータで分析してみると、魚が自然の状態になるので、特にはっきりしてくる。 その結果、面白い答が出た。 太平洋側と日本海側とで違うのである。 言い直せば、川が西から東に流れるか、或いは東から西に流れるかで、結果が逆さになってしまったのだ。
昔大阪に住んでいたことがある。 ここにいると東西南北の感覚が東北地方と違ってくる。 一番北はどこまで行ったことがありますか、と聞くと舞鶴とか北陸とかいい出すし、東はと聞くと東京とか名古屋といいだす。 同じことを仙台で聞くと、北は北海道だし南は東京だったり沖縄だったりする。 日本が弓形に曲がっているからなのだが、今でも大阪に行くと話がずれる時がある。
さて、東北地方のほぼ真中を奥羽山脈が南北に走り、川はそれぞれほぼ西と東に流れる。 山の東側つまり仙台側では、モーニングライズの時間が長く、午前11時頃まで続くが、イブニングライズは、山影に日が落ちなければ始まらない。 だから時期によっては僅か30分程で終ってしまう。 ところが日本海側、特に山形県の庄内地方の川では午後3時頃から始まって、季節によっては8時すぎまで、えんえんと続くことがある。 初めは、時期的な特異現象かと思ったが、1件だけではなく次々にデータが入ってくるとそうとばかりいえなくなってきた。 最近では、はっきりと結果がでてきて、なぜこうなるかを考えなければならなくなってきた。
一つの考えだが魚は流れに対して頭を上流に向けている。 これは東に流れている川では、夕方に逆光になるから、目の前にフライが落ちても、たぶん見えないか或いは非常に見えにくい状態になる。 日が落ちて、魚の目がなれてこないと、フライを見付けることが出来ないのではないかと思う。 ところが、西に流れている川では順光になる。
この、時間の関係と最高の季節とが加わると、5人でライズした回数が300回以上、フッキングさせた魚が100匹以上などという信じられないことが起きる。
ところが、くやしいことにこの時、私は釣り場に行っていなかった。
ひたすら、この連中が帰ってくるのを晩飯のおあずけをくいながら待っていた。 待つこと数時間帰ってきたのは10時近くで私と顔を合せるなり得々と結果をしゃべり始めた。 その後なんどかこの場所に通ったがこの時程の大釣りは経験していない。 日本海中部地震があった昭58年のある日の出来事である。(三浦剛資)
(「北の釣り」1985年8月号 No.39 P46掲載)
Copyright (c) 三浦剛資, 1985. All rights reserved.
ただあくまでも GIVE and TAKE を守らないと、データを提供してくれなくなるので、これは守っている。 したがって、記事の中で、コンピューターが出した答をそのまま載せることが出来ず、一部を伏せている部分もあるので、御了承願いたい。
さて、いつが一番釣れるか、などというのはやぼな話なので、別の角度から見てみよう。
フライマンの中には、イブニングライズを得意とする人と、モーニングライズを得意とする人と分れるようであるが、オレは朝が弱い、と言うのは別にして、実際どちらが有利かデータを追って見た。
休日祭日をさけて平日だけのデータで分析してみると、魚が自然の状態になるので、特にはっきりしてくる。 その結果、面白い答が出た。 太平洋側と日本海側とで違うのである。 言い直せば、川が西から東に流れるか、或いは東から西に流れるかで、結果が逆さになってしまったのだ。
昔大阪に住んでいたことがある。 ここにいると東西南北の感覚が東北地方と違ってくる。 一番北はどこまで行ったことがありますか、と聞くと舞鶴とか北陸とかいい出すし、東はと聞くと東京とか名古屋といいだす。 同じことを仙台で聞くと、北は北海道だし南は東京だったり沖縄だったりする。 日本が弓形に曲がっているからなのだが、今でも大阪に行くと話がずれる時がある。
さて、東北地方のほぼ真中を奥羽山脈が南北に走り、川はそれぞれほぼ西と東に流れる。 山の東側つまり仙台側では、モーニングライズの時間が長く、午前11時頃まで続くが、イブニングライズは、山影に日が落ちなければ始まらない。 だから時期によっては僅か30分程で終ってしまう。 ところが日本海側、特に山形県の庄内地方の川では午後3時頃から始まって、季節によっては8時すぎまで、えんえんと続くことがある。 初めは、時期的な特異現象かと思ったが、1件だけではなく次々にデータが入ってくるとそうとばかりいえなくなってきた。 最近では、はっきりと結果がでてきて、なぜこうなるかを考えなければならなくなってきた。
一つの考えだが魚は流れに対して頭を上流に向けている。 これは東に流れている川では、夕方に逆光になるから、目の前にフライが落ちても、たぶん見えないか或いは非常に見えにくい状態になる。 日が落ちて、魚の目がなれてこないと、フライを見付けることが出来ないのではないかと思う。 ところが、西に流れている川では順光になる。
この、時間の関係と最高の季節とが加わると、5人でライズした回数が300回以上、フッキングさせた魚が100匹以上などという信じられないことが起きる。
ところが、くやしいことにこの時、私は釣り場に行っていなかった。
ひたすら、この連中が帰ってくるのを晩飯のおあずけをくいながら待っていた。 待つこと数時間帰ってきたのは10時近くで私と顔を合せるなり得々と結果をしゃべり始めた。 その後なんどかこの場所に通ったがこの時程の大釣りは経験していない。 日本海中部地震があった昭58年のある日の出来事である。(三浦剛資)
(「北の釣り」1985年8月号 No.39 P46掲載)
Copyright (c) 三浦剛資, 1985. All rights reserved.
フライフィッシング内緒話 第2回 「コンピューターで記録を整理したら」という話 ― 2010/04/24 08:01
1976年の釣りシーズンから、出掛けた時の記録を付けている、と言ってもそんなに大袈裟なことではなく、初めは釣りカレンダーに、自分と同行者の分をメモ程度に書き留めているだけだった。 ところが年を追うごとに協力者が現われ、今では毎年かなりの数の記録が取れる様になってきた。 釣れた時は帰りに、釣れなかった時は、後で報告が入って来る。
こうなって来ると色々面白いことが見えて来る。 まして同時に二つの川で釣ることは出来ないのだからこれは貴重な記録になってくる。 こちらの川では全員オデコなのに、山一つ越したあちらの川では大釣り、という結果も入ってくる。 それらの原因を探るのに、この記録はおおいに役立っている。
最初は釣れた記録だけ取っていたがしばらくしてから、釣れなかった時の記録も取り始めた。 これが後で非常に役立つ。
記録の整理には、人間がやるとどうしても主観が入るのでコンピューターを使用した。 全てのデータをコンピューターにかまわずインプットしていった。
最近、新間の記事などでよく見掛けるので、ご記憶のむきもあろうと思われるが、いわゆるデータベースを作った。 それを、コンピューターのプログラムを使って、特定の条件で検索してやると、思いもがけない結果が出てくる。
使用したコンピューターは、16ビットで、ユーザーメモリーは384Kバイト、それにフロッピーディスクが2台付いた、PC-9801である。 それと、オペレーティングシステムは、MS-D0Sを使用した。
釣りの他に、もう一つの趣味がコンピュータ、という人が最近は結構多いので、自分もやってみようという人の為に申し上げると、フロッピーデスクドライプとオペレーティングシステム、これらが揃ってさえいれば、勿論8ビットでも出来るし、この場合のオペレーティングシステムは、CP/Mを使えばよい。
但し、自分で、それもBASICでプログラムを組んで、データはカセットテープで、などというのなら絶対におやめになったほうがよい。
プログラムの虫捜しで時間を潰すより、川で虫捜しをしたほうがよっぽどよい。
尚、この原稿もコンピューターをワープロのソフトで走らせて書いている。
さて、結果については次に書くことにして、どのようなデータを記録していたかについてお話しておこう。
年月月:カレンダーに書き込むのだから、別に若労は無い。
同行者:万が一の時、アリバイを証明してもらえる。
場所:本人が確認出来ればいいが1年もすると忘れる。 思い出す程度正確に。
魚種:ヤマメ、イワナなど。
サイズ:釣り人用の物差しは記録性が無い。 逃げたのは大きめでもキープしたのは正確に。
時間:夜明程けに近い朝、殆ど昼、完全に夕方、程度に。
フライ:初めて釣れたフライはイラストも書く。 フックサイズと色は必ず。
水温:できれば天候と共に、ヤマブキが咲いていたとか。
その他:釣りに行かなかった時でも天気が大きく変った時は記録した。(三浦剛資)
(「北の釣り」1985年8月号 No.39 P45-46 掲載)
Copyright (c) 三浦剛資, 1985. All rights reserved.
こうなって来ると色々面白いことが見えて来る。 まして同時に二つの川で釣ることは出来ないのだからこれは貴重な記録になってくる。 こちらの川では全員オデコなのに、山一つ越したあちらの川では大釣り、という結果も入ってくる。 それらの原因を探るのに、この記録はおおいに役立っている。
最初は釣れた記録だけ取っていたがしばらくしてから、釣れなかった時の記録も取り始めた。 これが後で非常に役立つ。
記録の整理には、人間がやるとどうしても主観が入るのでコンピューターを使用した。 全てのデータをコンピューターにかまわずインプットしていった。
最近、新間の記事などでよく見掛けるので、ご記憶のむきもあろうと思われるが、いわゆるデータベースを作った。 それを、コンピューターのプログラムを使って、特定の条件で検索してやると、思いもがけない結果が出てくる。
使用したコンピューターは、16ビットで、ユーザーメモリーは384Kバイト、それにフロッピーディスクが2台付いた、PC-9801である。 それと、オペレーティングシステムは、MS-D0Sを使用した。
釣りの他に、もう一つの趣味がコンピュータ、という人が最近は結構多いので、自分もやってみようという人の為に申し上げると、フロッピーデスクドライプとオペレーティングシステム、これらが揃ってさえいれば、勿論8ビットでも出来るし、この場合のオペレーティングシステムは、CP/Mを使えばよい。
但し、自分で、それもBASICでプログラムを組んで、データはカセットテープで、などというのなら絶対におやめになったほうがよい。
プログラムの虫捜しで時間を潰すより、川で虫捜しをしたほうがよっぽどよい。
尚、この原稿もコンピューターをワープロのソフトで走らせて書いている。
さて、結果については次に書くことにして、どのようなデータを記録していたかについてお話しておこう。
年月月:カレンダーに書き込むのだから、別に若労は無い。
同行者:万が一の時、アリバイを証明してもらえる。
場所:本人が確認出来ればいいが1年もすると忘れる。 思い出す程度正確に。
魚種:ヤマメ、イワナなど。
サイズ:釣り人用の物差しは記録性が無い。 逃げたのは大きめでもキープしたのは正確に。
時間:夜明程けに近い朝、殆ど昼、完全に夕方、程度に。
フライ:初めて釣れたフライはイラストも書く。 フックサイズと色は必ず。
水温:できれば天候と共に、ヤマブキが咲いていたとか。
その他:釣りに行かなかった時でも天気が大きく変った時は記録した。(三浦剛資)
(「北の釣り」1985年8月号 No.39 P45-46 掲載)
Copyright (c) 三浦剛資, 1985. All rights reserved.
フライフィッシング内緒話 第1回 「古けりゃ良いとはいわないが」という話 ― 2010/04/24 08:00
私がフライフィッシングに関係するようになったのが1972年だからもう13年程になる。 もっとも物心がついた時に目の前にフライロッドがあったから、その時から数えれば30年以上になる。
店の隅に桐箱に入った竿があった。 明らかに子供の目にも他の竿とは違う竿で、気になるもののひとつであった。 祖父に聞くと、進駐軍相手にお土産に売っていた物の売れ残った分、とのことだった。
六角竿(バンブーロッドとは断じて呼んでいなかった)がまだ珍しい頃で、日本人は買わなかったが本国に帰る進駐軍には売れに売れたそうである。 残念ながらその光景は私の記憶にない。 ただ売れたのは竿だけで、リールもラインもさっぱり売れ無かったそうである。 調子についてはおして知るべしで、もし良ければ今頃世界的なバンブーロッドのメーカーが日本に残っていたろうにと思われる。
ラインはたった1本だけ残っていたのを記憶している。 芯の入った袋打ちの紐があって、もっぱらホ先の蛇口の修理に使っていた。 今にして思えばシルクのレベルラインであった。 あの当時輸入品であるはずはないので日本のどこかで作っていたのだと思われる。 親父に聞いた話では2,3度進駐軍の連中が、フライで釣りをしているのを見たことがあるそうだが、地元の人で彼等からフライを教えてもらった人はいなかったようだ。
フライ用品を扱っている店がまだ少なかった頃、同業者が北海道に集まったことがある。 その時に聞かされた話では内地では講和条約が結ばれると進駐軍が在日駐留軍と名前が変り、一部を残して本国に引き上げたが北海道では遅くまで残っていたので、彼等からキャスティングを教えてもらったり、PX(米軍キャンプの中にあって生活必需品から無修正のプレイボーイまで売っている米軍の家族しか買うことが出来ない店)からフライラインやマテリアルを買ってもらったりして、かなりの人がフライに接した様であった。 そんな背景があったから、当時の北海道の層の厚さにびっくりさせられたりしたものだった。
古い話と言えばこんな話もある。 私の店で取り扱っている英国製品の日本代理店に、ある日1台のフライリールの修理依頼が来た。 調べて見ると、そのリールは1898年製で、既に生産中止になっているモデルだった。 依頼主の話を聞くと、お祖父様が当時英国勤務で、むこうの連中と付き合うため、ゴルフか乗馬、あるいはフライフィッシングをする必要から、ロンドンで買った物だった。 それが、長いことお蔵の中で眠っていたのを、孫の代になって見付け出したが、一部が破損していたため修理が出来るものならと依頼されたものだった。 おそらくその方は日本人としては、最も古くフライフィッシングに接した人だと思われる。 又、このメーカーは英国王室御用達である為、今上陸下がお若い頃ヨーロッパを御旅行された折フライフィッシングをされたという記録が残っている。 日本の宮内庁に記録があるかどうか不明だが、日本人がフライフィッシングをしたという一番古い記録だろう。 因に先程のリールは、無事修理が完了してお客様の手に戻った。 ところがこの話はさらにおまけがついていて、このメーカーからは修理完了のインボイスと共に、次のメッセージが付いて来た。
「第一次大戦の時は多少ごたごだがあって金型を一部失っているが、第二次大戦の時は防空壕に金型を避難してドイツのV1号から守ったので修理は可能である」と。(三浦剛資)
(「北の釣り」1985年8月号 No.39 P44-45 掲載)
Copyright (c) 三浦剛資, 1985. All rights reserved.
店の隅に桐箱に入った竿があった。 明らかに子供の目にも他の竿とは違う竿で、気になるもののひとつであった。 祖父に聞くと、進駐軍相手にお土産に売っていた物の売れ残った分、とのことだった。
六角竿(バンブーロッドとは断じて呼んでいなかった)がまだ珍しい頃で、日本人は買わなかったが本国に帰る進駐軍には売れに売れたそうである。 残念ながらその光景は私の記憶にない。 ただ売れたのは竿だけで、リールもラインもさっぱり売れ無かったそうである。 調子についてはおして知るべしで、もし良ければ今頃世界的なバンブーロッドのメーカーが日本に残っていたろうにと思われる。
ラインはたった1本だけ残っていたのを記憶している。 芯の入った袋打ちの紐があって、もっぱらホ先の蛇口の修理に使っていた。 今にして思えばシルクのレベルラインであった。 あの当時輸入品であるはずはないので日本のどこかで作っていたのだと思われる。 親父に聞いた話では2,3度進駐軍の連中が、フライで釣りをしているのを見たことがあるそうだが、地元の人で彼等からフライを教えてもらった人はいなかったようだ。
フライ用品を扱っている店がまだ少なかった頃、同業者が北海道に集まったことがある。 その時に聞かされた話では内地では講和条約が結ばれると進駐軍が在日駐留軍と名前が変り、一部を残して本国に引き上げたが北海道では遅くまで残っていたので、彼等からキャスティングを教えてもらったり、PX(米軍キャンプの中にあって生活必需品から無修正のプレイボーイまで売っている米軍の家族しか買うことが出来ない店)からフライラインやマテリアルを買ってもらったりして、かなりの人がフライに接した様であった。 そんな背景があったから、当時の北海道の層の厚さにびっくりさせられたりしたものだった。
古い話と言えばこんな話もある。 私の店で取り扱っている英国製品の日本代理店に、ある日1台のフライリールの修理依頼が来た。 調べて見ると、そのリールは1898年製で、既に生産中止になっているモデルだった。 依頼主の話を聞くと、お祖父様が当時英国勤務で、むこうの連中と付き合うため、ゴルフか乗馬、あるいはフライフィッシングをする必要から、ロンドンで買った物だった。 それが、長いことお蔵の中で眠っていたのを、孫の代になって見付け出したが、一部が破損していたため修理が出来るものならと依頼されたものだった。 おそらくその方は日本人としては、最も古くフライフィッシングに接した人だと思われる。 又、このメーカーは英国王室御用達である為、今上陸下がお若い頃ヨーロッパを御旅行された折フライフィッシングをされたという記録が残っている。 日本の宮内庁に記録があるかどうか不明だが、日本人がフライフィッシングをしたという一番古い記録だろう。 因に先程のリールは、無事修理が完了してお客様の手に戻った。 ところがこの話はさらにおまけがついていて、このメーカーからは修理完了のインボイスと共に、次のメッセージが付いて来た。
「第一次大戦の時は多少ごたごだがあって金型を一部失っているが、第二次大戦の時は防空壕に金型を避難してドイツのV1号から守ったので修理は可能である」と。(三浦剛資)
(「北の釣り」1985年8月号 No.39 P44-45 掲載)
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抜粋やぶにらみ続編 釣りを止めた口蹄疫 ― 2010/04/24 07:40
英国に端を発した口蹄疫は四月上旬現在で英国で一〇〇〇件を越える発生をみて、いまやその影響は欧州全体に広がりを見せている。 現実に英国を始め、アイルランド、オランダ、フランス、ドイツなどの各国に疫病が拡大し、英国だけで約百万の家畜が屠殺、焼却されている。 その処理のために軍隊が動員され旧飛行場の滑走路跡の敷地に数多くの埋葬のための穴がほられ、処分されているのを毎日のBBC放送が世界に知らせている。 日本の神戸ビーフの様に英国ではスコットランドのアンガス種の牛肉は、ローストなどにされ、欧州全土に売られてきた。 またラムと呼ばれる羊肉は英国ではもっとも大量に消費される食肉でいまやこの肉も地元の人々でも口に入らない様子で、一部の英国の肉屋では鳥肉だけしか売られていない地域もあるらしい。
口蹄疫の感染ルートのひとつに土がある。 昔は英国は欧州大陸とは海を隔てた独立独歩であったが、いまやユーロトンネルで地べたはつながってしまい、毎日何万もの自動車や、多くの人々の往来で大陸とイギリスは地続きになった。 そのために昔から云われた水際作戦はもはや役には立たず、疫病の伝染も地続きとなってしまった。 口蹄疫の発見以来、英国ではまず人口の数倍と云われる羊の管理が問題となった、羊は本来雨と湿気が多い英国でもその土地と気温に順応する家畜として飼育されて来たが、飼育の場所は限定されており、移動箇所も限られている。 しかし口蹄疫の伝染は、乾燥した土が風に舞い移動する現象が少なからず影響するので、英国特有のグリーンスリーブスでの羊たちが飛ばす土が、疫病の感染にかかわる恐れが大きいとされる。
英国では、ロンドンなどの都市をのぞき地方都市のほとんどは、町中を抜ければすぐ牧草地や、放牧地が点在するために、口蹄疫対象として人々の履物に付着する疫菌や車両のタイヤに付着する病原菌を除去するために、区々の入り口などに殺菌用具を準備して、土類の消毒を行っている。 デボンなどの地方では、地域により通常の路地なども通行禁止の場所があちこちに見られる。 さらに地域で開催されてきた朝市や、町民の祭り、集会などが中止となった。 国政選挙は数年おきに五月に行う事が決まっていたのに約半世紀を経てはじめて選挙の延期が口蹄疫の善処策を理由に決定された。 また空港などの交通機関では登場口などに殺菌カーペットを設置して乗客はすべてそのカーペットを通過する度に殺菌する処置が取られている。 日本でも既に成田空港などで欧州からの直行航空便の到着旅客は現在ボーディングブリッジに設置された殺菌カーペットを通る様になっている。
月曜から金曜までダークスーツで仕事をこなすか、カントリージャケットを一着して釣りを楽しむかが英国紳士と云われる程、英国では釣りはスポーツの中でも最右翼、特にトラウトフィッシングといわれる淡水釣りは、一四世紀頃から定着した英国の遊びとされている。 この国はスコットランドとウエールズの一部を除き山岳地帯は少ない丘陵地域が広がる。 昔の領主たちは水源確保のために人造の湖、池、運河を築き、その管理と水の品質を確保するために釣りを奨励したと云われる。 水源、家畜の放牧地帯、領地は三種の神器であった。 今回の口蹄疫の発生で駆除の方法としてまずあげられたのは、家畜の管理と疫病の有無、発見した場合の処分である。 次にこの疫病の感染と伝染の予防であった。 前述の土からの感染がまず阻止すべき初歩である点では、疑いがなくまたこの疫病の感染地区への人々の立ち入り阻止が重要と判断された水辺、湿地帯の土など最も感染率が高いとされる地域に立ち入る人はだれかとなった時、最初にその疑惑対象者になったのは、釣り人であった。 英国では家畜類の多くは放し飼いであり、放牧流域は河川があり釣り人と家畜は同じ土を踏み、歩く。 土が病原媒体であれば、釣り人は言うなれば病原菌を振り撤く元と、考えられてもどうにもならぬ。 結果的に汚染地域の土などの流出や移動を阻止する処置として、多くの地域で一時的に釣りの禁止が決定し、釣行が不可能となった。 口蹄疫と釣りは普通つながりを持つとは考えないのが通常であるが、確かに英国の風土や家畜管理を考えると釣り人はその中に存在することも間違いない事で、釣り人の自覚も必要と感じる。 日本とは同様に国の周囲を海に囲まれた英国であるが、釣りに関しては淡水釣りが主流のこの国では釣りが出来ないとなると釣り具の商売は万事休す、先日開催された国内の釣具展示会でも、息痴と不満が多く聞くかれたと云う。
英国人の食生活はいまや口蹄疫の影響で著しい変化を余儀なくされており、またウインピーのハンバーガーなども大幅値上げになっているらしい。 飛躍するが今やこの問題は国際線の機内食にまで影響を生じさせている。 世界の航空幹線である米国・ロンドン線は毎日多くの飛行機が往来し、それぞれの機内で食事が供される。 通常六~七時間の飛行時間を要するこの線では、フルコースの食事が提供され、ステーキなどがサービスされるが口蹄疫発生以後の機内では、英国国内のフライトキッチッン社のステーキはほとんどがキャンセルか、チキンなどに変更されている。 米国の航空会社の一部では英国での搭載をやめて米国からの便に往復分のステーキを準備して対応するところもあるらしいが、乗客の方が危惧してかビーフの注文が激減していて、野菜食のメニューが毎便品薄の状態になっているらしい。 この機内食は国際間で協定があり機内で使用される食品すべては、洒類を含み特別免税の処置がとられている。 したがって食材に価格の変化が著しい場合には、安い国から購入してコストを維持する方法などが航空会社の手腕とされる。 ところが現在英国からの便では、米国から安い良質ビーフを用意しても、英国のケータリングで料理すると、まるで口蹄疫の病原体の様に思われるので、免税輪入も出来ないとぼやいている。
最近欧州釣具協同機構に寄せられた正会員から、口蹄疫の発生以来特にアジア各国の税関および検疫機関がフライタイイング材料の取引について、通常の消毒証明だけではなく、口蹄疫発生国の公式免疫証明を要求するなどの、非関税障壁が起きているとクレームが寄せられている。 国際間の協定として動植物については検疫制度が確定されていて、その中でも日本は特にこの検疫に厳しい国とされる。 通常これらの材料については国際間で定められた消毒を輪出国で行うが、日本では素材によりさらに日本への上陸に際して再消毒を実施される。 それだけではなく先年国際間で批准承認された動植物保護に基づくワシントンン条約議定書にある禁輪出入品の監視、調査が厳しく、飼育動物の一部にまで制限を課す様な過剰なまでの取り締まりまで存在する。 この様なクレームが起きるのは現在アジア地区だけに止まらず法定伝染病である口蹄疫が世界に拡大することを恐れる事に外ならぬ。
(平成十年)
(荒井利治)
Copyright (c) T.Arai, 1998. All rights reserved.
口蹄疫の感染ルートのひとつに土がある。 昔は英国は欧州大陸とは海を隔てた独立独歩であったが、いまやユーロトンネルで地べたはつながってしまい、毎日何万もの自動車や、多くの人々の往来で大陸とイギリスは地続きになった。 そのために昔から云われた水際作戦はもはや役には立たず、疫病の伝染も地続きとなってしまった。 口蹄疫の発見以来、英国ではまず人口の数倍と云われる羊の管理が問題となった、羊は本来雨と湿気が多い英国でもその土地と気温に順応する家畜として飼育されて来たが、飼育の場所は限定されており、移動箇所も限られている。 しかし口蹄疫の伝染は、乾燥した土が風に舞い移動する現象が少なからず影響するので、英国特有のグリーンスリーブスでの羊たちが飛ばす土が、疫病の感染にかかわる恐れが大きいとされる。
英国では、ロンドンなどの都市をのぞき地方都市のほとんどは、町中を抜ければすぐ牧草地や、放牧地が点在するために、口蹄疫対象として人々の履物に付着する疫菌や車両のタイヤに付着する病原菌を除去するために、区々の入り口などに殺菌用具を準備して、土類の消毒を行っている。 デボンなどの地方では、地域により通常の路地なども通行禁止の場所があちこちに見られる。 さらに地域で開催されてきた朝市や、町民の祭り、集会などが中止となった。 国政選挙は数年おきに五月に行う事が決まっていたのに約半世紀を経てはじめて選挙の延期が口蹄疫の善処策を理由に決定された。 また空港などの交通機関では登場口などに殺菌カーペットを設置して乗客はすべてそのカーペットを通過する度に殺菌する処置が取られている。 日本でも既に成田空港などで欧州からの直行航空便の到着旅客は現在ボーディングブリッジに設置された殺菌カーペットを通る様になっている。
月曜から金曜までダークスーツで仕事をこなすか、カントリージャケットを一着して釣りを楽しむかが英国紳士と云われる程、英国では釣りはスポーツの中でも最右翼、特にトラウトフィッシングといわれる淡水釣りは、一四世紀頃から定着した英国の遊びとされている。 この国はスコットランドとウエールズの一部を除き山岳地帯は少ない丘陵地域が広がる。 昔の領主たちは水源確保のために人造の湖、池、運河を築き、その管理と水の品質を確保するために釣りを奨励したと云われる。 水源、家畜の放牧地帯、領地は三種の神器であった。 今回の口蹄疫の発生で駆除の方法としてまずあげられたのは、家畜の管理と疫病の有無、発見した場合の処分である。 次にこの疫病の感染と伝染の予防であった。 前述の土からの感染がまず阻止すべき初歩である点では、疑いがなくまたこの疫病の感染地区への人々の立ち入り阻止が重要と判断された水辺、湿地帯の土など最も感染率が高いとされる地域に立ち入る人はだれかとなった時、最初にその疑惑対象者になったのは、釣り人であった。 英国では家畜類の多くは放し飼いであり、放牧流域は河川があり釣り人と家畜は同じ土を踏み、歩く。 土が病原媒体であれば、釣り人は言うなれば病原菌を振り撤く元と、考えられてもどうにもならぬ。 結果的に汚染地域の土などの流出や移動を阻止する処置として、多くの地域で一時的に釣りの禁止が決定し、釣行が不可能となった。 口蹄疫と釣りは普通つながりを持つとは考えないのが通常であるが、確かに英国の風土や家畜管理を考えると釣り人はその中に存在することも間違いない事で、釣り人の自覚も必要と感じる。 日本とは同様に国の周囲を海に囲まれた英国であるが、釣りに関しては淡水釣りが主流のこの国では釣りが出来ないとなると釣り具の商売は万事休す、先日開催された国内の釣具展示会でも、息痴と不満が多く聞くかれたと云う。
英国人の食生活はいまや口蹄疫の影響で著しい変化を余儀なくされており、またウインピーのハンバーガーなども大幅値上げになっているらしい。 飛躍するが今やこの問題は国際線の機内食にまで影響を生じさせている。 世界の航空幹線である米国・ロンドン線は毎日多くの飛行機が往来し、それぞれの機内で食事が供される。 通常六~七時間の飛行時間を要するこの線では、フルコースの食事が提供され、ステーキなどがサービスされるが口蹄疫発生以後の機内では、英国国内のフライトキッチッン社のステーキはほとんどがキャンセルか、チキンなどに変更されている。 米国の航空会社の一部では英国での搭載をやめて米国からの便に往復分のステーキを準備して対応するところもあるらしいが、乗客の方が危惧してかビーフの注文が激減していて、野菜食のメニューが毎便品薄の状態になっているらしい。 この機内食は国際間で協定があり機内で使用される食品すべては、洒類を含み特別免税の処置がとられている。 したがって食材に価格の変化が著しい場合には、安い国から購入してコストを維持する方法などが航空会社の手腕とされる。 ところが現在英国からの便では、米国から安い良質ビーフを用意しても、英国のケータリングで料理すると、まるで口蹄疫の病原体の様に思われるので、免税輪入も出来ないとぼやいている。
最近欧州釣具協同機構に寄せられた正会員から、口蹄疫の発生以来特にアジア各国の税関および検疫機関がフライタイイング材料の取引について、通常の消毒証明だけではなく、口蹄疫発生国の公式免疫証明を要求するなどの、非関税障壁が起きているとクレームが寄せられている。 国際間の協定として動植物については検疫制度が確定されていて、その中でも日本は特にこの検疫に厳しい国とされる。 通常これらの材料については国際間で定められた消毒を輪出国で行うが、日本では素材によりさらに日本への上陸に際して再消毒を実施される。 それだけではなく先年国際間で批准承認された動植物保護に基づくワシントンン条約議定書にある禁輪出入品の監視、調査が厳しく、飼育動物の一部にまで制限を課す様な過剰なまでの取り締まりまで存在する。 この様なクレームが起きるのは現在アジア地区だけに止まらず法定伝染病である口蹄疫が世界に拡大することを恐れる事に外ならぬ。
(平成十年)
(荒井利治)
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抜粋やぶにらみ続編 釣具展示会東西顛末期 ― 2010/04/24 07:40
我が釣り具産業界にとって平成十一年は過去三年間の混迷のなかで、最も変化の多い年となった。 日本では最古の歴史を持った業界のリーダーでもあった東京釣用品協同組合か終焉を迎えるに至った。 戦後の復興の槌音の中の昭和二十九年、日本の釣り具産業の将来を見据えての発足であり、主眼のひとつは日本の釣具製造業者への支援を目的としたものであった。 当時は卸業者のパワーが強く釣り具業界の中小企業の育成のためにも、またメーカーとの共存のためにも協同組合法にもとずく結束が不可欠でもあった。 釣り具の世界では製造業者と位置づけ出来る企業は極少数にとどまっており、家内工業的要因が残る職人群の域を出ない人々を結束し、相互補助を推進する必要があった。 後年製造業者が収束して釣具製造組合が創設されたが、多くの製造業者は組合員として、東京の組合に加盟を存続し役員なども送り込む共存策が取られた。 その後昭和三十五年には釣具小売商組合と合併し、製造から小売まで流通の全てを取り込んだ異色ある組合として躍進した。 さらに出版、報道など釣り具関連企業まで、組合員として組み込み、主体事業である見本市の開催が決定しその第一回が開催されるに至ったのは、昭和三十八年(一九六三年)であった。 製造業者自身での見本市の開催は当時の業界の現状からむずかしく、卸企業の助けを必要としていた。 また特に中小製造企業の商品等の紹介も必須のことであり、東釣協ではこれらの状況を勘案し、小売業者を対象とした見本市の開催を決定した。 この決定の前年、当時の常見商店は自社の取り扱い商品を中心とした業者内覧会(小規模見本市)を開催し、好評裏に終了した経緯なども組合事業としての見本市開催の具申となっている。 産経会館を会場として二十二社が出展、業者二千人が来場した。
ちなみに当時既に組合化していた米国釣具製造組合(AFTMA)は業界事業としての見本市をシカゴなどで開催していたが、それ以外業界として専門の見本市は海外でも存在しなかった。
翌年には倍増した出展希望者のために産経会館の国際ホールを会場として開催、一般公開を行う事になった。 その後はこのスタイルが定着し、業者日と一般公開日の変動などがあったが、最後まで業者と需要家両方を迎える方針の変更はなかった。 数年後からはじまった大阪のショーでも同様のスタイルが採用されている。 欧米では業者と一般需要家を対象としたショーは別途に開催するのがほとんどで、業者日と一般日を区分けして、単一会場で行う例は少ない。 この方式は外国では一九九五年頃から開催されたブラジルのへイペスカショーだけであった。 この方式の決定には数年にわたる出展業者などの反応、意見、希望などを集約した結果のもので、基本的には出展者、入場者の双方から受け入れられ、フィッシングショーのスタイルとして定着した。
昭和五十四年頃から、欧州の釣り具業者はドイツ・ケルンで開催されてきたスポガアウトドア関係ショーでの釣具および関連業種への対応に不満が起こり、スポガをボイコットして欧州釣り具業者団体の設立と自主ショーの開催を模索していた。 釣り具の業界自体他の産業からみれば小規模の域を出ない産業であるが、欧州においてはその中でも日本の企業が、ずば抜けて業界を占有しており、業者団体の設立に対して一部の強硬意見は日本業者はボイコットせよとの要求であった。 しかし欧州自体の釣り具産業の多くが日本または極東の業者に依存している実態から、日本のボイコットを認めれば組織の設立は至難との結論であった。 昭和五十六年(一九八一年)、スポガに代わる釣具関係の自主団体としてエフタ(EFTTA)が難産の末誕生し、同組織が主催するショー、エフテックスは日本などの正会員以外の各社の出展ブースのサイズ制限など形式的な制約を課して翌年昭和五十七年から自主ショーの開催を決議した。
欧州のバケーションシーズンの直前、六月に英国バーミンガムにおいて第一回エフテックス(EFTTEX)が開催された。 会場は予想通り日本のブランドが目白押しの感が見られ、日本反対勢の反発を受けた、しかし現実は日本に撤退されたらショーは成立しない程の力があり、主催者としてもジレンマに悩まされる結果となった。 翌年の一九八三年のパリからは早くも当初の規制を撤廃して開催の運びとなった。 多数国参加ながら規模も小さい関係でこの年は、シャンゼリゼの西端のホテルの回廊が会場となった。 日本人にとっては好都合の場所で、同じビルの中にパリ大丸がありインスタント食品など入手出来た。 一九八五年エフテックスはデンマークのコペンハーゲンにおいて開催された。
一夕、世界に知られているチボリ公園においてレセプションが行われ、賓客として招かれた常見東釣協理事長が祝辞を述べるとともに、エフタ会長であった(当時)ビラー氏との面談の際、東京ショーを欧米のエフタ会員にも門出を開く様に要請を受けた。 東京側に異存はなく、この申し出を快諾したが同席していた米国釣具協同組合のフォイル会長からも同様の優遇をと要請され、協議の末に、世界三大ショーと位置付けされてきている米国のAFTMAショー、欧州のEFTTEXショー、そして東京フィッシングショーをそれぞれの団体に加盟するメンバーにたいして、会員待遇出展を承認した。 さらに東釣協ではこの意義ある提携を進展させる意から一九八六年のショーから名称を東京国際フィッシングショーとしてショーの構成をふくむ改善を行った。
東京国際フィッシングショーの一回目として釣聖と呼ばれるアイザック・ウォルトン回顧展を海外取材を敢行して行った。 釣りの経典といわれる釣魚大全などの展示、大英博物館所蔵の初版本の複写フィルムの公開など、一般公開ショーのためのイベントも国際化を図って挙行された。 一九八八年からは二つの海外団体会員の製品展示『世界のウインドショッピング』が開始され、エフテックスでも同様の企画展示が行われている。 東京国際フィッシングショーには海外からの直接出展が始まり、また一九八九年からは三団体相互の提携コマが設置され、それぞれのショーの広報、出展者の募集などが行える様になった。
この年のEFTTEXショーでは日欧米の協議でグローバルな視野を踏まえた国際機関の設置が検討され、持ち帰り協議としての懸案が生まれた。 世界的に広めたい釣り場の保護、明日の釣り人の育成、環境保全などを世界規模でプロモートすべきとの考えから生まれたボランティア活動の推進機関の設立である。 この団体は後日国際スポーツフィッシング協議会と命名された。
日本では、この方策に全面賛意を示し東京、大阪の両釣り関係組合、日釣工そして最もこの運動にふさわしい団体日釣振が母体となった日本支部が結成された。 そして日本代表などの人選がおこなわれた。
その後欧米と東釣協間の交流は拡大の方向で推移して来た。 特に欧州のEFTTEXショーに対しては種々にわたるノーハウの交換、共同企画の推進を積極的に行うとともに、同ショーヘの日本からの出展、視察などの参加案内窓口としてもその役割を担ってきた。 この経緯は日釣工とのショー共催になっても継続されたが、東釣協のショーの終結とともに現在ではお座なりの国際協調になっている様で、国際出展も減衰している。
東京のショーは旧協力者でもあった日釣工会員の意図的なボイコットとショー乗っ取りに近い妨害により継続が困難となり一九九六年二月の第三十四回を最後に終止符を打つ結果となった。 同年三月には日釣工が単独でフィッシングショーを横浜で旗揚げし工業会の結束を鼓舞し翌一九九七年の東釣工の会場予約の譲渡を申し入れ、事実上の乗っ取り策を行使した。 一部の東釣協の役員を取り込んでの策がなされ、以後二年間にわたって、東釣協への慰謝料的な金員として三千五百万円が支払われたが、これを契機に東釣協は主事業であり、収入源の全てを失う事となった。
一九九九年夏、東釣協の臨時総会で組合の解散が議決された。 さらに九月三十日をもって正式に解散の清算がなされる事になった。 金員の額が適当かどうかは判らないが、少なくとも三十四回にわたるショーがもたらした業界内外への貢献をそっくり引き継ぐ結果となったJOSPOショーは『漁夫の利』ではなかろうか。
一九九七年夏、米国フライフィッシング協会(AFTTA)は既に十回を迎えた国際フライタックルデーラーショーに対して、共催またはショー主権の譲渡を迫った。 一九八八年の秋、コロラド州デンバーで業界誌であるFTD(フライタックルデーラー)が業界の発展と自誌の営業拡大を目的として始めたショーである。 一九九○年に入るとフライフィッシングは米国でも急激な人口増となり、またフライフィッシングに参画する国が拡大した。 日本などもこの頃から大幅な人口増となった。 ショーは順調に拡大し、牧草の中のホテルの展示場から州立のコンベンションホールを会場に移す程に成長し、ショーの名称も国際フライフィッシングディーラーショーとした。 その矢先のフライフィッシング協会の申し出は、FTDとしては受け入れられるものではなかった。 協会側はそれならばと他のプロモーターとの接触を試み、その結果フリーマン出版社が共催の形で新しいショーを画策し会場を既製のデンバーのあるコロラド州の隣、ユタ州ソルトレーク市に候補地を選んだ。 一九九八年冒頭から協会では会員に対して自主的なショーであり、会員の参加を訴え同時にFTDへの応援拒絶を表明した。 FTDでも思わぬ伏兵に驚き、フライフィッシング協会に改善を申し入れたが既に協会側は硬化していて、申し入れは受け入れなかった。 そこでFTDでは一九九九年からは東西でのIFTDショーの開催を発表、さらに小売業者などとの利便を考えたが、一九九八年両方のショーが終了した時点ではIFTDは惨敗となり、結果としてソルトレークに軍配が上がった。 その結果IFTDでは一九九九年のデンバーにおけるショーの開催を早々と断念、西側のショーはAFTTAに委ね、東のバルティモアでのショーをIFTDの継続として実施すべく準備に入った。 ところが東釣協のショーの黎明期と同様に、弱小企業や個人事業家が多いフライフィッシングの世界では毎年二ヵ所でショーに参加するほどゆとりもなく、また協会からの見えないプレッシャーがバルティモアへの参加を躊躇させる結果となり、出展者の数が予想を大幅に下廻り中止を余儀なくさせる結果となった、さらに追い打ちをかける様にAFTTAのボイコット効果が予想外の方にも影響を与え、FTD誌自体の発刊も停止に至っている。 日本の例では数年を要しているが米国のこの事件はわずか二年の間に完全な失速と乗っ取り同様な打撃を与えていて、日本よりインパクトが強い。 まさしくこれも『漁夫の利』と言える。
南米唯一のフィッシングショーであるFEIPESCAが始まって六~七年になるが、本年のショーを限りに空中分解に近い終結を迎えた。 ブラジル・サンパウロの展示場を会場として、業者、一般と東京ショーに類似したイベントなどを中心に構成されていた。 南米らしく宵っ張りの朝寝坊タイプのショーは正午過ぎからオープンで終わりは毎日午後十時、それから夕食、飲酒となるので就寝は午前様が当然。 そんなのんびりしたショーであったが、会期が日本などにくらべると長い為か、多い年は十五万人を集めるショーとして、日本、欧州、米国などからも出展者が増大する傾向が見られた。 四年ほど前からはブラジル政府の貿易振興局が支援を始め、またプロモーションの費用の一部負担を始めるなど積極的な主催者の動きがあった。
ところが本年の四月のショー終了後、漁夫の利を得ようとして主催者と政府、そして支援団体三つ巴の駆け引きが尾を引いてしまい、政府はスポンサーから離脱、第三支援団体の無理強いに主催者が引き下がる結果となった。 第三支援者の一部が政府にすがり、二〇〇〇年以後のプロモートを始めているが、政府も乗り気うす、そのうえ関税など引き下げるとの約束が反古にされたままなので、日本や先進国からの輸入業者は高関税に悲鳴をあげており、フェイペスカの分裂を機に撤退する業者が続出していて、来年以降の予定が立たないのが現況である。 南米ではかくして漁夫の利は得られなかったが、事実上南米唯一のフィッシングショーは終焉を迎える結果となった。
なんとなく他人の揮で元気な感じを残しているのが、中国釣具見本市、これは中国の振興会的な団体が主体となってはじまった釣具関係ショーであるが、欧米などの下請けや、OEM専業メーカーなどが中国で増えた結果、台湾、韓国そして中国のトライアングルの関係が功を奏している風情が見られる。 只日本などは出展は見合わせて逆に中国業者の窓口として出展し、日本や欧米などの業者との縁結びを図る業者がではじめているのが、従来の欧米や日本のショーにはなかったもの。 同じアジア人として、また中国などは作る低価格帯の商品の一段上を開発する鍵として、日本の業者は手助けになる役目を果たすことが出来よう。 釣具のアジアからの買い付けや仕入れは欧米業者にとっては依然として魅力がある。 しかし添付される説明書や、部品リストなどをとると、日本製品と他のアジア製品には大差があり、付加価値に大きな差をつける。 これなども、日本の業者が側面から援助することにより、商品価値を引き上げる事が出未るとの判断からアジア側から日本の支援を望む体系に移行しつつある。
一九九八年香港において、ファッション分野で日本語ブームが起きた。 Tシャッなどに何でも日本語が印刷されているものが売れるブームで日本人から見ると意味不明であっても香港の人々は争って購入し、身につけた。 またショーの飾り付けなども日本漢字を採用したデザインパネルなどが多用されていて興味をひいたが、これなども日本が関与している製品と欧米に見られる事を意識してのものであって、アジア製であっても日本の技術が監修していると思わせるテクニックが珍重されての事である。
不思議と思われるかも知れないが、北京のショーで台湾業者のブースに日本人の説明員がおり、ヨーロッパからのバイヤーとの商談をこなしていた。 いまや日本製品は高額で採算がとれないが日本の技術の監修を得た台湾の製品は充分採算のとれる価格帯でバイヤーにとっても魅力ある商品として注目されていた。 日本は何も作らず、出来上がったアジア製品の監修と製品作成指導を主体として、存在感を持つ事が出来れば旧年彼らに取られた漁夫の利をこれから取り返すチャンスが生まれるかもしれぬ。
(平成十年)
(荒井利治)
Copyright (c) T.Arai, 1998. All rights reserved.
ちなみに当時既に組合化していた米国釣具製造組合(AFTMA)は業界事業としての見本市をシカゴなどで開催していたが、それ以外業界として専門の見本市は海外でも存在しなかった。
翌年には倍増した出展希望者のために産経会館の国際ホールを会場として開催、一般公開を行う事になった。 その後はこのスタイルが定着し、業者日と一般公開日の変動などがあったが、最後まで業者と需要家両方を迎える方針の変更はなかった。 数年後からはじまった大阪のショーでも同様のスタイルが採用されている。 欧米では業者と一般需要家を対象としたショーは別途に開催するのがほとんどで、業者日と一般日を区分けして、単一会場で行う例は少ない。 この方式は外国では一九九五年頃から開催されたブラジルのへイペスカショーだけであった。 この方式の決定には数年にわたる出展業者などの反応、意見、希望などを集約した結果のもので、基本的には出展者、入場者の双方から受け入れられ、フィッシングショーのスタイルとして定着した。
昭和五十四年頃から、欧州の釣り具業者はドイツ・ケルンで開催されてきたスポガアウトドア関係ショーでの釣具および関連業種への対応に不満が起こり、スポガをボイコットして欧州釣り具業者団体の設立と自主ショーの開催を模索していた。 釣り具の業界自体他の産業からみれば小規模の域を出ない産業であるが、欧州においてはその中でも日本の企業が、ずば抜けて業界を占有しており、業者団体の設立に対して一部の強硬意見は日本業者はボイコットせよとの要求であった。 しかし欧州自体の釣り具産業の多くが日本または極東の業者に依存している実態から、日本のボイコットを認めれば組織の設立は至難との結論であった。 昭和五十六年(一九八一年)、スポガに代わる釣具関係の自主団体としてエフタ(EFTTA)が難産の末誕生し、同組織が主催するショー、エフテックスは日本などの正会員以外の各社の出展ブースのサイズ制限など形式的な制約を課して翌年昭和五十七年から自主ショーの開催を決議した。
欧州のバケーションシーズンの直前、六月に英国バーミンガムにおいて第一回エフテックス(EFTTEX)が開催された。 会場は予想通り日本のブランドが目白押しの感が見られ、日本反対勢の反発を受けた、しかし現実は日本に撤退されたらショーは成立しない程の力があり、主催者としてもジレンマに悩まされる結果となった。 翌年の一九八三年のパリからは早くも当初の規制を撤廃して開催の運びとなった。 多数国参加ながら規模も小さい関係でこの年は、シャンゼリゼの西端のホテルの回廊が会場となった。 日本人にとっては好都合の場所で、同じビルの中にパリ大丸がありインスタント食品など入手出来た。 一九八五年エフテックスはデンマークのコペンハーゲンにおいて開催された。
一夕、世界に知られているチボリ公園においてレセプションが行われ、賓客として招かれた常見東釣協理事長が祝辞を述べるとともに、エフタ会長であった(当時)ビラー氏との面談の際、東京ショーを欧米のエフタ会員にも門出を開く様に要請を受けた。 東京側に異存はなく、この申し出を快諾したが同席していた米国釣具協同組合のフォイル会長からも同様の優遇をと要請され、協議の末に、世界三大ショーと位置付けされてきている米国のAFTMAショー、欧州のEFTTEXショー、そして東京フィッシングショーをそれぞれの団体に加盟するメンバーにたいして、会員待遇出展を承認した。 さらに東釣協ではこの意義ある提携を進展させる意から一九八六年のショーから名称を東京国際フィッシングショーとしてショーの構成をふくむ改善を行った。
東京国際フィッシングショーの一回目として釣聖と呼ばれるアイザック・ウォルトン回顧展を海外取材を敢行して行った。 釣りの経典といわれる釣魚大全などの展示、大英博物館所蔵の初版本の複写フィルムの公開など、一般公開ショーのためのイベントも国際化を図って挙行された。 一九八八年からは二つの海外団体会員の製品展示『世界のウインドショッピング』が開始され、エフテックスでも同様の企画展示が行われている。 東京国際フィッシングショーには海外からの直接出展が始まり、また一九八九年からは三団体相互の提携コマが設置され、それぞれのショーの広報、出展者の募集などが行える様になった。
この年のEFTTEXショーでは日欧米の協議でグローバルな視野を踏まえた国際機関の設置が検討され、持ち帰り協議としての懸案が生まれた。 世界的に広めたい釣り場の保護、明日の釣り人の育成、環境保全などを世界規模でプロモートすべきとの考えから生まれたボランティア活動の推進機関の設立である。 この団体は後日国際スポーツフィッシング協議会と命名された。
日本では、この方策に全面賛意を示し東京、大阪の両釣り関係組合、日釣工そして最もこの運動にふさわしい団体日釣振が母体となった日本支部が結成された。 そして日本代表などの人選がおこなわれた。
その後欧米と東釣協間の交流は拡大の方向で推移して来た。 特に欧州のEFTTEXショーに対しては種々にわたるノーハウの交換、共同企画の推進を積極的に行うとともに、同ショーヘの日本からの出展、視察などの参加案内窓口としてもその役割を担ってきた。 この経緯は日釣工とのショー共催になっても継続されたが、東釣協のショーの終結とともに現在ではお座なりの国際協調になっている様で、国際出展も減衰している。
東京のショーは旧協力者でもあった日釣工会員の意図的なボイコットとショー乗っ取りに近い妨害により継続が困難となり一九九六年二月の第三十四回を最後に終止符を打つ結果となった。 同年三月には日釣工が単独でフィッシングショーを横浜で旗揚げし工業会の結束を鼓舞し翌一九九七年の東釣工の会場予約の譲渡を申し入れ、事実上の乗っ取り策を行使した。 一部の東釣協の役員を取り込んでの策がなされ、以後二年間にわたって、東釣協への慰謝料的な金員として三千五百万円が支払われたが、これを契機に東釣協は主事業であり、収入源の全てを失う事となった。
一九九九年夏、東釣協の臨時総会で組合の解散が議決された。 さらに九月三十日をもって正式に解散の清算がなされる事になった。 金員の額が適当かどうかは判らないが、少なくとも三十四回にわたるショーがもたらした業界内外への貢献をそっくり引き継ぐ結果となったJOSPOショーは『漁夫の利』ではなかろうか。
一九九七年夏、米国フライフィッシング協会(AFTTA)は既に十回を迎えた国際フライタックルデーラーショーに対して、共催またはショー主権の譲渡を迫った。 一九八八年の秋、コロラド州デンバーで業界誌であるFTD(フライタックルデーラー)が業界の発展と自誌の営業拡大を目的として始めたショーである。 一九九○年に入るとフライフィッシングは米国でも急激な人口増となり、またフライフィッシングに参画する国が拡大した。 日本などもこの頃から大幅な人口増となった。 ショーは順調に拡大し、牧草の中のホテルの展示場から州立のコンベンションホールを会場に移す程に成長し、ショーの名称も国際フライフィッシングディーラーショーとした。 その矢先のフライフィッシング協会の申し出は、FTDとしては受け入れられるものではなかった。 協会側はそれならばと他のプロモーターとの接触を試み、その結果フリーマン出版社が共催の形で新しいショーを画策し会場を既製のデンバーのあるコロラド州の隣、ユタ州ソルトレーク市に候補地を選んだ。 一九九八年冒頭から協会では会員に対して自主的なショーであり、会員の参加を訴え同時にFTDへの応援拒絶を表明した。 FTDでも思わぬ伏兵に驚き、フライフィッシング協会に改善を申し入れたが既に協会側は硬化していて、申し入れは受け入れなかった。 そこでFTDでは一九九九年からは東西でのIFTDショーの開催を発表、さらに小売業者などとの利便を考えたが、一九九八年両方のショーが終了した時点ではIFTDは惨敗となり、結果としてソルトレークに軍配が上がった。 その結果IFTDでは一九九九年のデンバーにおけるショーの開催を早々と断念、西側のショーはAFTTAに委ね、東のバルティモアでのショーをIFTDの継続として実施すべく準備に入った。 ところが東釣協のショーの黎明期と同様に、弱小企業や個人事業家が多いフライフィッシングの世界では毎年二ヵ所でショーに参加するほどゆとりもなく、また協会からの見えないプレッシャーがバルティモアへの参加を躊躇させる結果となり、出展者の数が予想を大幅に下廻り中止を余儀なくさせる結果となった、さらに追い打ちをかける様にAFTTAのボイコット効果が予想外の方にも影響を与え、FTD誌自体の発刊も停止に至っている。 日本の例では数年を要しているが米国のこの事件はわずか二年の間に完全な失速と乗っ取り同様な打撃を与えていて、日本よりインパクトが強い。 まさしくこれも『漁夫の利』と言える。
南米唯一のフィッシングショーであるFEIPESCAが始まって六~七年になるが、本年のショーを限りに空中分解に近い終結を迎えた。 ブラジル・サンパウロの展示場を会場として、業者、一般と東京ショーに類似したイベントなどを中心に構成されていた。 南米らしく宵っ張りの朝寝坊タイプのショーは正午過ぎからオープンで終わりは毎日午後十時、それから夕食、飲酒となるので就寝は午前様が当然。 そんなのんびりしたショーであったが、会期が日本などにくらべると長い為か、多い年は十五万人を集めるショーとして、日本、欧州、米国などからも出展者が増大する傾向が見られた。 四年ほど前からはブラジル政府の貿易振興局が支援を始め、またプロモーションの費用の一部負担を始めるなど積極的な主催者の動きがあった。
ところが本年の四月のショー終了後、漁夫の利を得ようとして主催者と政府、そして支援団体三つ巴の駆け引きが尾を引いてしまい、政府はスポンサーから離脱、第三支援団体の無理強いに主催者が引き下がる結果となった。 第三支援者の一部が政府にすがり、二〇〇〇年以後のプロモートを始めているが、政府も乗り気うす、そのうえ関税など引き下げるとの約束が反古にされたままなので、日本や先進国からの輸入業者は高関税に悲鳴をあげており、フェイペスカの分裂を機に撤退する業者が続出していて、来年以降の予定が立たないのが現況である。 南米ではかくして漁夫の利は得られなかったが、事実上南米唯一のフィッシングショーは終焉を迎える結果となった。
なんとなく他人の揮で元気な感じを残しているのが、中国釣具見本市、これは中国の振興会的な団体が主体となってはじまった釣具関係ショーであるが、欧米などの下請けや、OEM専業メーカーなどが中国で増えた結果、台湾、韓国そして中国のトライアングルの関係が功を奏している風情が見られる。 只日本などは出展は見合わせて逆に中国業者の窓口として出展し、日本や欧米などの業者との縁結びを図る業者がではじめているのが、従来の欧米や日本のショーにはなかったもの。 同じアジア人として、また中国などは作る低価格帯の商品の一段上を開発する鍵として、日本の業者は手助けになる役目を果たすことが出来よう。 釣具のアジアからの買い付けや仕入れは欧米業者にとっては依然として魅力がある。 しかし添付される説明書や、部品リストなどをとると、日本製品と他のアジア製品には大差があり、付加価値に大きな差をつける。 これなども、日本の業者が側面から援助することにより、商品価値を引き上げる事が出未るとの判断からアジア側から日本の支援を望む体系に移行しつつある。
一九九八年香港において、ファッション分野で日本語ブームが起きた。 Tシャッなどに何でも日本語が印刷されているものが売れるブームで日本人から見ると意味不明であっても香港の人々は争って購入し、身につけた。 またショーの飾り付けなども日本漢字を採用したデザインパネルなどが多用されていて興味をひいたが、これなども日本が関与している製品と欧米に見られる事を意識してのものであって、アジア製であっても日本の技術が監修していると思わせるテクニックが珍重されての事である。
不思議と思われるかも知れないが、北京のショーで台湾業者のブースに日本人の説明員がおり、ヨーロッパからのバイヤーとの商談をこなしていた。 いまや日本製品は高額で採算がとれないが日本の技術の監修を得た台湾の製品は充分採算のとれる価格帯でバイヤーにとっても魅力ある商品として注目されていた。 日本は何も作らず、出来上がったアジア製品の監修と製品作成指導を主体として、存在感を持つ事が出来れば旧年彼らに取られた漁夫の利をこれから取り返すチャンスが生まれるかもしれぬ。
(平成十年)
(荒井利治)
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抜粋やぶにらみ続編 何日北京再来 ― 2010/04/24 07:39
黄土に染まる北京首都国際空港は昨年新ターミナルがオープンして国際線と国内線を分離した。 台湾路線と香港路線は国際線にそのまま残しているのがご愛嬌、つまり一国二制度がここにも生きている。 待合室などでは普通でさえ猥雑的な騒音が十二憶といわれる雑多な民族の国ゆえ倍増して聞こえる。 長い歩く歩道を過ぎると、入国審査、ほとんどが査証を事前に受けているので、質問もされずパス、勿論なにか言われても北京語が判らないので答え様もない。 香港などからの来訪者も同様で広東語とは全く異なる言語なので、話が出来ない。 つまり同じ中国国籍でも通訳を介さないと言葉が通じないのである。 預けていた荷物も回転台に順調に戻って北京でも赤/緑の自己申告式通路を通って税関も終了。 なぜか日本の成田の様にすぐには荷物が戻ってこないので回転台に現れる間を利用して最寄りに設置された中国銀行自動外貨交換機のお世話になって、中国元への交換もすぐに出来る。(平成十二年春現在)
上海などの空港も新空港が整備、開業して中国の空港も日本以上に整備が進んでいるらしく中国人自身が近代化に驚いている。
評判の悪い空港タクシーも新ターミナルでは若干管理がうるさい為かすんなりと乗車出来た。 昨年までは白タクが横行して手に負えなかったが今年は若干改良された様子。 でも下車する時に案の定二割ほどふっかけられたが、無視して突っぱねた。
タクシーのドライバーはほとんどが無愛想で、その上お互いに言葉に問題があるので、無言のドライブが普通。 空港を出ると唯広い野原の様な郊外をひた走る。 時折白樺などが混じる林を横切るが、未だ若葉もない木立は北の首都の寒さを予期するかのごとく、まだ枯れ色のまま。 時折簡略漢字の道路標識が色を添える以外空港から首都への道はモノトーンが続く。 北京の空港について一番びっくりするのは漢字王国である中国の首部のいろいろな表示の多くが簡略漢字で表示されていて日本人には理解出来ない事で、併記されている英語(ローマ字)の意味を解して納得する事が多い。 我々が云う京劇と呼ぶ中国の芝居など香港の早朝番組などで放送されているが、すべて字幕が流されていて、香港の人々は外国映画と同様にこれにより意味を知り、セリフを理解するのが北京に来てはじめて理解出来る。 同じ中国言語の国でありながら、台湾や香港は漢字の簡略もあまりしておらず、また旧式漢字も併用しているので、難しい漢字はいまや台湾、香港の子供達の方が理解度が高い様だ。
日本を代表するエアラインである日本航空が経営するホテル『京倫飯店』は釣具展示会が行われる国際貿易中心と隣接しており、我々の様な地元無知の来訪者にとって便利至極、その上ホテル従業員の中には日本語が解る人も多く、何よりである。 中華、日本、洋食と食べ物も好きなものが選択出来、申し分ない。 その上ホテル内に銀行があり、両替も香港や他国の様に両替率がホテルだからといって悪くない。 市中銀行と同一なのだ。 ホテルの宿泊も他国の様に一々枕銭と称するチップは不要で特別にサービスを願った場合を除いて、北京では小銭の必要はない。 同じ様に食事のあとでチップ加算のややこしい作業が北京では必要ない。
今年の中国国際釣魚用品交易展覧会(CHINA FISH2000)は二月十九日から四日間開催された。 このショーは一九九一年に第一回が開催され、中国の業者を中心として、日本、米国、欧州、韓国などについで釣り具展示会として運営されて来たもので、本年は十回目を迎えた。
会場は貿易センターの一~二階の一万平方米の会場で、中国の二百社を中心に、台湾、香港、近隣諸国、日本などが参加、欧州からも一社、そして米国スポーツフィッシング協会のブースが出展していた。 昨年までは台湾の勢力が目立っていたが今年はなんとなく勢力減衰の感が強く二日目以後の一般公開日には展示を止めて撤収する出展者も見られた。 日本からも数社が出展していたが、直接の出展はほとんどなく、現地の代理店などが代行出展の形を取っていた。
昨年に比べて全体的にショー全体に輝きがなく、また来場者の反応も新製品や、ユニークさに欠けるとの意見が大半を占めた。 これは特に日本などの下請けを行っている小物業者が日本などからの受注減のあおりを受け、本年前半の減益を厳しく受け止めている印象が見られた。 勿論この現象は釣り具だけに止まらず、現地百貨店、中小小売店などにまで波及しており、日本文字が氾濫する包装、化粧箱のままの製品が道路などで乱売されている風景が多々見られた。
米国スポーツフィッシング協会のマーク・マスターソン会長が来賓としてショーに参画されていたが、日本、欧州などからは業界要人の出席はなかった。 一九九○年頃にゴールデンエージを迎えた我が釣り具業界であったが、その後の衰勢を見ていると、二○○○年を迎えて各国でのショーの運営や、グローバルネットの異変など、どこか変化が始まっている様な感じを受けるのは小生だけであればよいのだが。
駆け足でみた北京であるが、昨年と比べても、この首都が急速に変貌を遂げている事が解る。 中国政府と上層部は何を主眼としているか判らぬが市民生活は益々欧米化している。 特に青少年の生活ではいまでは欧米や日本と変わらぬ様になっていて、もはやマックでは驚かない。 ディスコなども日本を越えていると思う程の場所が北京のあちこちに見られる。 グッチ、プラダ、ルイヴィトンなども若者に大人気で唯違うのはこれらのほとんどがコピー。 シャネルの小さなバッグが一五○○円で買えるのであまりブランドものも苦にならす手に入る。 勿論本物ではないがこの辺がミラノの人々とは違うところで、周りもほとんどコピー愛用者なので気にする方が田舎者といった按配で、考え方の違いが重要。
八人で現地人と北京ダックの夕食を取って支払った代金は五○米ドル余り。 つまり五千円。 ひとり当たり七○○円見当で三羽の北京ダックとビールなどを平らげての話。 でも日本人だけでいったら絶対黙って二万円。 依然として二重価格は現存していることも事実で、ホテルで日本人がビールを飲むと四七五円が相場、でも現地の人は時間帯によっては二四○円、つまり夕方の割り引き時間、ハッピーアワーであっても、云わないと日本人は普通の代金を請求される。
昨年一年は周辺掘り返しで難儀した天安門広場、そして、王府井、東単、西単なとが整備されてなんと地下鉄も開業した。 展示会場の貿易中心も地下鉄と直結し、周辺の地下はほとんどが商業スペース、地下の複層階にはスケートリンク、デパート、映画館などが軒を連ねる。 何せ冬には零下二十度も現存する北の首都であり、地下への依存度は札幌並、そしてハウス育ちの花花が通路に咲き乱れる様はとても一昔前の中国の写真と置き換えられない。 女性の運転手で運行される新地下鉄は車内も明るく清潔で、運賃はなんと二十五円。 保温や、安全、保安など種々の理由から地下鉄新線は地下二〇米付近を走行する。 ホームまではエスカレーターなどで結ばれているが、普段は上りのみ。 下りは階段を下りて歩行訓練。
東京/北京線は日本航空は七四七新型ジャンボ、そして全日空は七七七の新型、どちらも国際線では最短路線でありながら代表機種を使用している。
北京/東京は約二・五時間、その間にどうゆう訳か日中政府はフルサービスを要求するらしく、飲み物、食事、免税機内販売まで行う。 離陸して水平飛行になるとビール、ワインなどサービスしてくれるのはありがたいが、なんとせわしい事か、その上最近のエコノミーの食事は学校給食よりひどく肉などは精々三○グラム。 若千の野菜と不味いメシ、スライス一枚のサーモンとゴミ野菜のサラダで終わり。 どう見積もっても合計原価は二五○円程度。 ビールだって缶ビール二本が限度、余りのひどさに文句を云う気力もないままに成田帰着。 通常、機内でサービスをしてくれるスチュワーデスさんは、機内で出した食事で余ったものを、自分たちも食べる。 東京/北京路線では飛行時間も短い関係で機内乗務員もすべて日帰り、つまりメニューに出ている食事を一日二回も食べるはめになる。
勿論ビジネスやファーストの食事が残って食べられればラッキーだが乗務員の食事が出来る時間はなんと一〇~一五分程前後それも到着地に近かづいてから。
健康的に考えればそんなときはフォアグラよりごぼう巻の牛肉の方がヘルシーかも知れないが、そばや副食もなしで隠元と白菜を薄い牛肉で巻いた五センチくらいで切ったもの二個と、ジャガイモとご飯、これを『牛肉ねぎま風、香付飯添え』と献立に書く勇気ある航空会社には驚かされるが食べる側は粗末さにげんなりだろう。
一九七二年に最初に機内食の記録を初めて今年で二十八年目になるが今後どう変わるのかイササカ心配な質素過ぎる機内食である。
(平成十年)
(荒井利治)
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上海などの空港も新空港が整備、開業して中国の空港も日本以上に整備が進んでいるらしく中国人自身が近代化に驚いている。
評判の悪い空港タクシーも新ターミナルでは若干管理がうるさい為かすんなりと乗車出来た。 昨年までは白タクが横行して手に負えなかったが今年は若干改良された様子。 でも下車する時に案の定二割ほどふっかけられたが、無視して突っぱねた。
タクシーのドライバーはほとんどが無愛想で、その上お互いに言葉に問題があるので、無言のドライブが普通。 空港を出ると唯広い野原の様な郊外をひた走る。 時折白樺などが混じる林を横切るが、未だ若葉もない木立は北の首都の寒さを予期するかのごとく、まだ枯れ色のまま。 時折簡略漢字の道路標識が色を添える以外空港から首都への道はモノトーンが続く。 北京の空港について一番びっくりするのは漢字王国である中国の首部のいろいろな表示の多くが簡略漢字で表示されていて日本人には理解出来ない事で、併記されている英語(ローマ字)の意味を解して納得する事が多い。 我々が云う京劇と呼ぶ中国の芝居など香港の早朝番組などで放送されているが、すべて字幕が流されていて、香港の人々は外国映画と同様にこれにより意味を知り、セリフを理解するのが北京に来てはじめて理解出来る。 同じ中国言語の国でありながら、台湾や香港は漢字の簡略もあまりしておらず、また旧式漢字も併用しているので、難しい漢字はいまや台湾、香港の子供達の方が理解度が高い様だ。
日本を代表するエアラインである日本航空が経営するホテル『京倫飯店』は釣具展示会が行われる国際貿易中心と隣接しており、我々の様な地元無知の来訪者にとって便利至極、その上ホテル従業員の中には日本語が解る人も多く、何よりである。 中華、日本、洋食と食べ物も好きなものが選択出来、申し分ない。 その上ホテル内に銀行があり、両替も香港や他国の様に両替率がホテルだからといって悪くない。 市中銀行と同一なのだ。 ホテルの宿泊も他国の様に一々枕銭と称するチップは不要で特別にサービスを願った場合を除いて、北京では小銭の必要はない。 同じ様に食事のあとでチップ加算のややこしい作業が北京では必要ない。
今年の中国国際釣魚用品交易展覧会(CHINA FISH2000)は二月十九日から四日間開催された。 このショーは一九九一年に第一回が開催され、中国の業者を中心として、日本、米国、欧州、韓国などについで釣り具展示会として運営されて来たもので、本年は十回目を迎えた。
会場は貿易センターの一~二階の一万平方米の会場で、中国の二百社を中心に、台湾、香港、近隣諸国、日本などが参加、欧州からも一社、そして米国スポーツフィッシング協会のブースが出展していた。 昨年までは台湾の勢力が目立っていたが今年はなんとなく勢力減衰の感が強く二日目以後の一般公開日には展示を止めて撤収する出展者も見られた。 日本からも数社が出展していたが、直接の出展はほとんどなく、現地の代理店などが代行出展の形を取っていた。
昨年に比べて全体的にショー全体に輝きがなく、また来場者の反応も新製品や、ユニークさに欠けるとの意見が大半を占めた。 これは特に日本などの下請けを行っている小物業者が日本などからの受注減のあおりを受け、本年前半の減益を厳しく受け止めている印象が見られた。 勿論この現象は釣り具だけに止まらず、現地百貨店、中小小売店などにまで波及しており、日本文字が氾濫する包装、化粧箱のままの製品が道路などで乱売されている風景が多々見られた。
米国スポーツフィッシング協会のマーク・マスターソン会長が来賓としてショーに参画されていたが、日本、欧州などからは業界要人の出席はなかった。 一九九○年頃にゴールデンエージを迎えた我が釣り具業界であったが、その後の衰勢を見ていると、二○○○年を迎えて各国でのショーの運営や、グローバルネットの異変など、どこか変化が始まっている様な感じを受けるのは小生だけであればよいのだが。
駆け足でみた北京であるが、昨年と比べても、この首都が急速に変貌を遂げている事が解る。 中国政府と上層部は何を主眼としているか判らぬが市民生活は益々欧米化している。 特に青少年の生活ではいまでは欧米や日本と変わらぬ様になっていて、もはやマックでは驚かない。 ディスコなども日本を越えていると思う程の場所が北京のあちこちに見られる。 グッチ、プラダ、ルイヴィトンなども若者に大人気で唯違うのはこれらのほとんどがコピー。 シャネルの小さなバッグが一五○○円で買えるのであまりブランドものも苦にならす手に入る。 勿論本物ではないがこの辺がミラノの人々とは違うところで、周りもほとんどコピー愛用者なので気にする方が田舎者といった按配で、考え方の違いが重要。
八人で現地人と北京ダックの夕食を取って支払った代金は五○米ドル余り。 つまり五千円。 ひとり当たり七○○円見当で三羽の北京ダックとビールなどを平らげての話。 でも日本人だけでいったら絶対黙って二万円。 依然として二重価格は現存していることも事実で、ホテルで日本人がビールを飲むと四七五円が相場、でも現地の人は時間帯によっては二四○円、つまり夕方の割り引き時間、ハッピーアワーであっても、云わないと日本人は普通の代金を請求される。
昨年一年は周辺掘り返しで難儀した天安門広場、そして、王府井、東単、西単なとが整備されてなんと地下鉄も開業した。 展示会場の貿易中心も地下鉄と直結し、周辺の地下はほとんどが商業スペース、地下の複層階にはスケートリンク、デパート、映画館などが軒を連ねる。 何せ冬には零下二十度も現存する北の首都であり、地下への依存度は札幌並、そしてハウス育ちの花花が通路に咲き乱れる様はとても一昔前の中国の写真と置き換えられない。 女性の運転手で運行される新地下鉄は車内も明るく清潔で、運賃はなんと二十五円。 保温や、安全、保安など種々の理由から地下鉄新線は地下二〇米付近を走行する。 ホームまではエスカレーターなどで結ばれているが、普段は上りのみ。 下りは階段を下りて歩行訓練。
東京/北京線は日本航空は七四七新型ジャンボ、そして全日空は七七七の新型、どちらも国際線では最短路線でありながら代表機種を使用している。
北京/東京は約二・五時間、その間にどうゆう訳か日中政府はフルサービスを要求するらしく、飲み物、食事、免税機内販売まで行う。 離陸して水平飛行になるとビール、ワインなどサービスしてくれるのはありがたいが、なんとせわしい事か、その上最近のエコノミーの食事は学校給食よりひどく肉などは精々三○グラム。 若千の野菜と不味いメシ、スライス一枚のサーモンとゴミ野菜のサラダで終わり。 どう見積もっても合計原価は二五○円程度。 ビールだって缶ビール二本が限度、余りのひどさに文句を云う気力もないままに成田帰着。 通常、機内でサービスをしてくれるスチュワーデスさんは、機内で出した食事で余ったものを、自分たちも食べる。 東京/北京路線では飛行時間も短い関係で機内乗務員もすべて日帰り、つまりメニューに出ている食事を一日二回も食べるはめになる。
勿論ビジネスやファーストの食事が残って食べられればラッキーだが乗務員の食事が出来る時間はなんと一〇~一五分程前後それも到着地に近かづいてから。
健康的に考えればそんなときはフォアグラよりごぼう巻の牛肉の方がヘルシーかも知れないが、そばや副食もなしで隠元と白菜を薄い牛肉で巻いた五センチくらいで切ったもの二個と、ジャガイモとご飯、これを『牛肉ねぎま風、香付飯添え』と献立に書く勇気ある航空会社には驚かされるが食べる側は粗末さにげんなりだろう。
一九七二年に最初に機内食の記録を初めて今年で二十八年目になるが今後どう変わるのかイササカ心配な質素過ぎる機内食である。
(平成十年)
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抜粋やぶにらみ続編 十一面観世音風EUコインの登場 ― 2010/04/24 07:39
日本における通貨の常識として一単位のコインのデザインは一種類に限定されるのが普通で年号の変化以外異なるデザインやサイズが通常使用される裏は稀である。 勿論記念コインなど特別な貨幣の発行にあたっては、一時的なもので且つ収集を目的とするべく作成されたものが多く、一般に流通することは少ない。 特にこの国では自動販売機が異常な程に発展をとげており、下手な店員以上に挨拶までこなす販売機が存在する。 ところがこれらの機械でも、時折コイン通貨を判別出来ず他国の価値の低い通貨による悪用が出たりする。
欧米の自動販売機はほとんど釣銭が出ないし、使用出来るコインの種類も限定されており、紙幣をいれてコインで釣銭が出る様な頭脳明晰な機械はほとんど存在しない。 もしあればその機械は日本製と思ってよい。 したがって各国の財務当局も現在まで自動販売機を考慮してコイン通貨のデザインなどを行う例はないので、時によりメダルの様な大型コインや同一単価のコインでサイズが異なるものも発行される。 しかし日本では自動販売機も流通上の要点のひとつとされ、通貨の発行にあたっては、サイズ、厚み、表面の凹凸が制限されている。
米国を例にみると、ほとんど流通していないが一ドルコインは大小二種類が現在存在している。 不思議に思うがネバダ州ラスベガスでは全米で使われる一ドルコインの五○パーセント以上が流通、使用されていると云う。 大型はスロットルマシーンなどには使えない大きいコインで米国の建国二百年記念として発行され、いまでも毎年一定数がデンバーなどの連邦政府造幣局で作られている。 小型の一ドルコインは一部の自動販売機やラスベガスの賭博機械で使用出来る。 このコインは他州でも流通していて、ハワイ州ホノルルの銀行などでも観光客用に用意されていて申し出れば交換してくれる。 価値あるメイド イン USAが少ない昨今なので、幾つか交換してもらって日本に持ち帰ると以外と喜ばれる土産にもなる。 あとは有名なケネディコインの名前で知られる五○セントコイン、この通貨の発行分の六○パーセント以上が海外に散っているといわれ、世界中の人々が記念通貨、土産通貨として保有していると云われる。 通貨として使用されるのではなくペンダントやブローチに加工されてコインショップなどで販売されている例も多い。 またコインショップでは米国で発行された記念貨幣のペンダントケースを昔から販売していて、若者がアクセサリーとして保持している。
さて、現在欧州では二○○一年からのユーロ通貨の使用開始に備えてフル稼働で新貨幣が作られている。 当然の事ながら紙幣とコインが発行されるが、驚くべきことはコインのデザインである。 発行されるコインの片面はすべて同一デザインであるが、なんと他面側は参加十一ヵ国毎にデザインを独自に決めたものになる。 EU当初の予定では十五ヶ国がこの新統一通貨の使用国になるはずであったが、スエーデン、デンマーク、英国、そしてギリシャが二○○二年のスタートには加わらない。 そしてノルウェーとスイスは参加の表明すらしていないので、EUの新通貨使用国は二○○二年の一月一日の段階では十一ヶ国となる。 つまり同一単位通貨のコインが使用開始時には金額毎に十一種類づつ発行されることになる。 日本には十一面の顔を持つ観世音菩薩があるがECの通貨の統一と通貨単位の足並みを揃え、国境を取り除くはずのEUの通貨のデザインは実際には十一面を持つコインなどちぐはぐなスタートをさらけだす結果となっている。
紙幣は裏表同一のデザインらしいが、コインはすべて違う。 おそらくこの考えかたは従来同様に輪送や通貨管理上から一国を一地域と考えてこの線引きを越えたコインの交換を制約するために考えた事だろうが、車社会の現在ではコインの重量や輪送上の制約などほとんど考えられず、予測であるが五年後に至ってはコイン通貨の流通の流れも把握出来なくなるだろう。 また、十一種類の異なる通貨を判別、解読する自動販売機は相当のコスト高になると思われるし、欧米の現状から自動販売機が素直にこれらのコインを受け入れるか疑問。 ほとんど作動不能になるのではと心配になる。 この記事をまとめている最中に日本でも二○○○円日銀券の発行が発表され、同日自動販売機メーカーの株が四○円も上昇したが、メーカーにしてみれば一枚の新券に対して世界の類似紙幣を撥ね除ける技術の開発が必要になるのであって、単に新券の判別だけではない。 現実に鉄道などの自動販売機でも釣銭が出たり、券種により磁気付き用紙と普通軟券と区分け発行したりする技術は数ヵ国しかない。
こんな状況の中でもフランスでは特に新通貨ユーロのキャンペーンが盛んで積極的になって来ている。 各銀行などでは複数のパンフレットを用意して新通貨、貨幣のPRに余念がない。 特に傑作なものは子供向けの広報パンフレットで基礎知識を知る為にも大人まで充分参考になる内容になっている。
パリ・ナショナル銀行が発行しているミッキージャーナル特別号『ユーロは簡単』などは漫画で変更の時期、加盟国、通貨のデザインなどがわかりやすく掲載されている。 その上、びっくりものは英語ぎらいのフランスにあって英語を合む外国語版まで用意している。
パリ郊外にあるディズニーランドパリでは、今夏、既に国内のすべての売店などのレジスターはフランス通貨とユーロ換金額が併記したレシートが発行されている。 勿論本年使用を開始したトラベラーズチェックなども受付てくれる、前述のパリ・ナショナル銀行のミッキージャーナル誌もテーマパークの各ホテルや、受付などに用意されていて誰でも入手出来る。 逆にアムステルダムの商店街ではユーロの計算が出来ないと、最初からユーロトラベラーズチェックは相手にされなかった。 二○○二年の開始時には加盟はしないが英国でも、ユーロスターの切符売り場など大陸と隣接する企業などは自国通貨とともにユーロ通貨での併記を開始した。
新貨幣を紹介するパンフレットも各国で発行されていて、二○○二年からの使用開始の案内に余念がないが、前述の通りすべて国毎にデザインが違うコインなので、各国単位でのパンフレットしかない。 つまり一国単位の新通貨パンフレットをそれぞれの国で配布していて、コインは十一面であることは、広報されていない。
いまでも、英国でスコットランドの通貨をロンドンで使おうと思っても、イングランドでは相手にされない。 逆にエジンバラでイングランド銀行発行の紙幣で支払いをしても、問題は起きない。 スコットランド紙幣で支払ってイングランド通貨でお釣りをくれるのは、いまは民間になったがブリットレール(英国鉄道網)と英国内の空港売店などほとんど限られている。
この風習を考えると二○○二年以後、フランスのコインをドイツのミュンヘンで支払おうとすると、コインのデザインが違うので、受け取り拒否をされるのではないかと今から心配。 なんのための統一ユーロなのか、全然判らない。 つまり通貨単位は国際化したが、なんとなくしょうがないから付き合っているといった風情。
ユーロは一九九八年の十二月末の各国の確定通貨交換レートで加盟国十一国の対ユーロレートが決められた。 この決定によりユーロの対ドル、対ポンド、対円などユーロ以外との換算レートが一月はじめから設定された。 一月七日のレートを参考にすると当日一ユーロドルは米国では一.一四五ドルとなり、英国ポンドでは六六.四九ペンスに換算された。 ちなみに日本円では一三二円六五銭となった。
ところが十月に入った段階では対米国ドルは一.○五三八ドル、英国ポンドは六○.九八ペンスとほぼ十パーセント下落になっている。 日本円に対しては一一六.六○円と十二パーセントを越える下落となり、今後日本経済の回復が順調にすすめば年末には十五パーセント以上の減額となるだろう。
ユーロ通貨は先に述べた通り、その指導権はフランス、ドイツがほぼ枢機国として機能していることは周知の事実である。 ところが早春からはじまったユーゴへのNATOの進攻は米英とともに仏独両国もこの戦争に参画したために世界の為替の世界では厳しい評価を受ける事となった。 特にドイツは第二次世界大戦での敗戦国であり、参戦については西側からも賛否両論が交錯した。 そのうえ東独との合併後の処理が思わしくなく、失業率の改善もなされないままに、コール政権の終焉があり経済基盤がもろくなっていた矢先の参戦であった。 その結果としてユーゴの戦渦が去った後もドイツマルクの相場はほどんど改善がないままに今日を迎えており、結果的にはユーロドルの足を引っ張っている。
おなじユーロ加盟国でありながらスペインやスエーデンなどは下落巾が小さい事を考えると、今後残された一年二ヵ月の間に改善がどの様に行われるのか、また国内改善策に具体的な施策があるのか懸念される。
二次的に考えられている追加加盟国として、英国、ノルウェーなど数ヶ国があるが、現状を見る限り安易な新加盟は望めない。 英国病といわれた倦怠はいまや忘れ去られ、世界通貨の雄としてポンドの地位もゆるぎない今日、特にイギリスでは労働党が政権を維持する限りブレア首相が加盟に対してゴーサインを出すとは思えない。 ユーロの積極支持者であったサッチャー女史と、その後継者であったメージャーが後退し、保守党の時代が終わり、その上サッチャー女史の引退後の院政スキャンダルなどが発覚した現況を考えると、当面ブレアの時代が続くものと思われるからだ。
あってはならない事であるが、欧州の人々が云う『レストオブワールド』の国々が現在の経済不安を打破し、回復基調が出て来れば、間違いなくユーロドルは米国ドルと肩を並べるまで下落してしまうだろうし、そうなるとイタリアなど景気回復基調にある現在のEU加盟国の内数ヵ国はこの連盟を離脱する危険をはらんでいる。 新通貨、EUユーロは欧州の通貨一元化とドルに対抗出来る強度を兼ね備えた通貨になることを目標にここまでこぎつけて来たが、リーダーであるはずだったポンドがいち抜けたの状態では、とても強い通貨の出現はおぼつかない。 二○○二の一月一日までは加盟国それぞれが自国通貨を流通させており、いまから離脱しても問題は少ない。 コイン程度であれば片面自国デザイン通貨は各国が引き取り独自に流通させるか、または破棄してしまえば、問題は消滅する。 邪推めくがそんな事も配慮して現在コインが作られているとは思いたくないが。 いずれにせよ通貨価値が異なる十一ヶ国がひとつの通貨単位にするのは大変なことである。
一九九九年十二月三日、予想した通りユーロは米国一ドルを割り込む事態を迎えた。 欧州の投機筋も当然の事ながら日米通貨への関心を強め、この流れは当面変わりそうもない展開となっている。
(平成十年)
(荒井利治)
Copyright (c) T.Arai, 1998. All rights reserved.
欧米の自動販売機はほとんど釣銭が出ないし、使用出来るコインの種類も限定されており、紙幣をいれてコインで釣銭が出る様な頭脳明晰な機械はほとんど存在しない。 もしあればその機械は日本製と思ってよい。 したがって各国の財務当局も現在まで自動販売機を考慮してコイン通貨のデザインなどを行う例はないので、時によりメダルの様な大型コインや同一単価のコインでサイズが異なるものも発行される。 しかし日本では自動販売機も流通上の要点のひとつとされ、通貨の発行にあたっては、サイズ、厚み、表面の凹凸が制限されている。
米国を例にみると、ほとんど流通していないが一ドルコインは大小二種類が現在存在している。 不思議に思うがネバダ州ラスベガスでは全米で使われる一ドルコインの五○パーセント以上が流通、使用されていると云う。 大型はスロットルマシーンなどには使えない大きいコインで米国の建国二百年記念として発行され、いまでも毎年一定数がデンバーなどの連邦政府造幣局で作られている。 小型の一ドルコインは一部の自動販売機やラスベガスの賭博機械で使用出来る。 このコインは他州でも流通していて、ハワイ州ホノルルの銀行などでも観光客用に用意されていて申し出れば交換してくれる。 価値あるメイド イン USAが少ない昨今なので、幾つか交換してもらって日本に持ち帰ると以外と喜ばれる土産にもなる。 あとは有名なケネディコインの名前で知られる五○セントコイン、この通貨の発行分の六○パーセント以上が海外に散っているといわれ、世界中の人々が記念通貨、土産通貨として保有していると云われる。 通貨として使用されるのではなくペンダントやブローチに加工されてコインショップなどで販売されている例も多い。 またコインショップでは米国で発行された記念貨幣のペンダントケースを昔から販売していて、若者がアクセサリーとして保持している。
さて、現在欧州では二○○一年からのユーロ通貨の使用開始に備えてフル稼働で新貨幣が作られている。 当然の事ながら紙幣とコインが発行されるが、驚くべきことはコインのデザインである。 発行されるコインの片面はすべて同一デザインであるが、なんと他面側は参加十一ヵ国毎にデザインを独自に決めたものになる。 EU当初の予定では十五ヶ国がこの新統一通貨の使用国になるはずであったが、スエーデン、デンマーク、英国、そしてギリシャが二○○二年のスタートには加わらない。 そしてノルウェーとスイスは参加の表明すらしていないので、EUの新通貨使用国は二○○二年の一月一日の段階では十一ヶ国となる。 つまり同一単位通貨のコインが使用開始時には金額毎に十一種類づつ発行されることになる。 日本には十一面の顔を持つ観世音菩薩があるがECの通貨の統一と通貨単位の足並みを揃え、国境を取り除くはずのEUの通貨のデザインは実際には十一面を持つコインなどちぐはぐなスタートをさらけだす結果となっている。
紙幣は裏表同一のデザインらしいが、コインはすべて違う。 おそらくこの考えかたは従来同様に輪送や通貨管理上から一国を一地域と考えてこの線引きを越えたコインの交換を制約するために考えた事だろうが、車社会の現在ではコインの重量や輪送上の制約などほとんど考えられず、予測であるが五年後に至ってはコイン通貨の流通の流れも把握出来なくなるだろう。 また、十一種類の異なる通貨を判別、解読する自動販売機は相当のコスト高になると思われるし、欧米の現状から自動販売機が素直にこれらのコインを受け入れるか疑問。 ほとんど作動不能になるのではと心配になる。 この記事をまとめている最中に日本でも二○○○円日銀券の発行が発表され、同日自動販売機メーカーの株が四○円も上昇したが、メーカーにしてみれば一枚の新券に対して世界の類似紙幣を撥ね除ける技術の開発が必要になるのであって、単に新券の判別だけではない。 現実に鉄道などの自動販売機でも釣銭が出たり、券種により磁気付き用紙と普通軟券と区分け発行したりする技術は数ヵ国しかない。
こんな状況の中でもフランスでは特に新通貨ユーロのキャンペーンが盛んで積極的になって来ている。 各銀行などでは複数のパンフレットを用意して新通貨、貨幣のPRに余念がない。 特に傑作なものは子供向けの広報パンフレットで基礎知識を知る為にも大人まで充分参考になる内容になっている。
パリ・ナショナル銀行が発行しているミッキージャーナル特別号『ユーロは簡単』などは漫画で変更の時期、加盟国、通貨のデザインなどがわかりやすく掲載されている。 その上、びっくりものは英語ぎらいのフランスにあって英語を合む外国語版まで用意している。
パリ郊外にあるディズニーランドパリでは、今夏、既に国内のすべての売店などのレジスターはフランス通貨とユーロ換金額が併記したレシートが発行されている。 勿論本年使用を開始したトラベラーズチェックなども受付てくれる、前述のパリ・ナショナル銀行のミッキージャーナル誌もテーマパークの各ホテルや、受付などに用意されていて誰でも入手出来る。 逆にアムステルダムの商店街ではユーロの計算が出来ないと、最初からユーロトラベラーズチェックは相手にされなかった。 二○○二年の開始時には加盟はしないが英国でも、ユーロスターの切符売り場など大陸と隣接する企業などは自国通貨とともにユーロ通貨での併記を開始した。
新貨幣を紹介するパンフレットも各国で発行されていて、二○○二年からの使用開始の案内に余念がないが、前述の通りすべて国毎にデザインが違うコインなので、各国単位でのパンフレットしかない。 つまり一国単位の新通貨パンフレットをそれぞれの国で配布していて、コインは十一面であることは、広報されていない。
いまでも、英国でスコットランドの通貨をロンドンで使おうと思っても、イングランドでは相手にされない。 逆にエジンバラでイングランド銀行発行の紙幣で支払いをしても、問題は起きない。 スコットランド紙幣で支払ってイングランド通貨でお釣りをくれるのは、いまは民間になったがブリットレール(英国鉄道網)と英国内の空港売店などほとんど限られている。
この風習を考えると二○○二年以後、フランスのコインをドイツのミュンヘンで支払おうとすると、コインのデザインが違うので、受け取り拒否をされるのではないかと今から心配。 なんのための統一ユーロなのか、全然判らない。 つまり通貨単位は国際化したが、なんとなくしょうがないから付き合っているといった風情。
ユーロは一九九八年の十二月末の各国の確定通貨交換レートで加盟国十一国の対ユーロレートが決められた。 この決定によりユーロの対ドル、対ポンド、対円などユーロ以外との換算レートが一月はじめから設定された。 一月七日のレートを参考にすると当日一ユーロドルは米国では一.一四五ドルとなり、英国ポンドでは六六.四九ペンスに換算された。 ちなみに日本円では一三二円六五銭となった。
ところが十月に入った段階では対米国ドルは一.○五三八ドル、英国ポンドは六○.九八ペンスとほぼ十パーセント下落になっている。 日本円に対しては一一六.六○円と十二パーセントを越える下落となり、今後日本経済の回復が順調にすすめば年末には十五パーセント以上の減額となるだろう。
ユーロ通貨は先に述べた通り、その指導権はフランス、ドイツがほぼ枢機国として機能していることは周知の事実である。 ところが早春からはじまったユーゴへのNATOの進攻は米英とともに仏独両国もこの戦争に参画したために世界の為替の世界では厳しい評価を受ける事となった。 特にドイツは第二次世界大戦での敗戦国であり、参戦については西側からも賛否両論が交錯した。 そのうえ東独との合併後の処理が思わしくなく、失業率の改善もなされないままに、コール政権の終焉があり経済基盤がもろくなっていた矢先の参戦であった。 その結果としてユーゴの戦渦が去った後もドイツマルクの相場はほどんど改善がないままに今日を迎えており、結果的にはユーロドルの足を引っ張っている。
おなじユーロ加盟国でありながらスペインやスエーデンなどは下落巾が小さい事を考えると、今後残された一年二ヵ月の間に改善がどの様に行われるのか、また国内改善策に具体的な施策があるのか懸念される。
二次的に考えられている追加加盟国として、英国、ノルウェーなど数ヶ国があるが、現状を見る限り安易な新加盟は望めない。 英国病といわれた倦怠はいまや忘れ去られ、世界通貨の雄としてポンドの地位もゆるぎない今日、特にイギリスでは労働党が政権を維持する限りブレア首相が加盟に対してゴーサインを出すとは思えない。 ユーロの積極支持者であったサッチャー女史と、その後継者であったメージャーが後退し、保守党の時代が終わり、その上サッチャー女史の引退後の院政スキャンダルなどが発覚した現況を考えると、当面ブレアの時代が続くものと思われるからだ。
あってはならない事であるが、欧州の人々が云う『レストオブワールド』の国々が現在の経済不安を打破し、回復基調が出て来れば、間違いなくユーロドルは米国ドルと肩を並べるまで下落してしまうだろうし、そうなるとイタリアなど景気回復基調にある現在のEU加盟国の内数ヵ国はこの連盟を離脱する危険をはらんでいる。 新通貨、EUユーロは欧州の通貨一元化とドルに対抗出来る強度を兼ね備えた通貨になることを目標にここまでこぎつけて来たが、リーダーであるはずだったポンドがいち抜けたの状態では、とても強い通貨の出現はおぼつかない。 二○○二の一月一日までは加盟国それぞれが自国通貨を流通させており、いまから離脱しても問題は少ない。 コイン程度であれば片面自国デザイン通貨は各国が引き取り独自に流通させるか、または破棄してしまえば、問題は消滅する。 邪推めくがそんな事も配慮して現在コインが作られているとは思いたくないが。 いずれにせよ通貨価値が異なる十一ヶ国がひとつの通貨単位にするのは大変なことである。
一九九九年十二月三日、予想した通りユーロは米国一ドルを割り込む事態を迎えた。 欧州の投機筋も当然の事ながら日米通貨への関心を強め、この流れは当面変わりそうもない展開となっている。
(平成十年)
(荒井利治)
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抜粋やぶにらみ続編 ユーロは果たして欧州貨幣になり得るのか ― 2010/04/24 07:39
一九九九年一月一日から欧州のEU加盟国のうち十一ヵ国が幻の通貨であるユーロを承認し、加盟手続きを行った。 加盟した国々はベルギー、ドイツ、スペイン、フランス、アイルランド、イタリア、ルクセンブルグ、オランダ、オーストリア、ポルトガルそしてフィンランドである。 そして当初の加盟予定国であった英国、ギリシャ、デンマーク、スエーデン、ノルウェーなどは加盟を見送っている。 さらに欧州通貨の中で最も安定し、強い存在であるスイスは加盟の意志も示していない。 この様に通貨が一本化出来ない理由にはいろいろな原因があるが、その中でも一番の問題は強い通貨と弱い通貨があること、農業主体国と酪農主体国の違いも大きな要因と云われている。 一九九九年の当初から二○○一年の十二月末日までは、各国それぞれの通貨が主体に使用されるが二○○二年からはユーロ紙幣と各国通貨が併用となり、同年の七月からはユーロ圏すべてでは同一通貨であるユーロに統一される。
当該国通貨とユーロとの換算レートは一九九八年十二月三十一日のレートを基準として固定処置が行われた。 これは一九九九年一月一日から二○○二年までの通貨相場を設定する指針として固定し、最終的に基軸となる円対ユーロ、ドル対ユーロの動きを表記させる意味を持って定めたもので、二○○二年までの間には大巾な変動などが生じた場合には変更も検討される事になろう。 はたして一九九九年三月にはユーゴに対してNATOは戦時体制をとる処置に出て、不本意のままに参戦を余儀なくされたEU加盟国も出て、通貨の価値変動が大巾になってきている。 今回のユーロ通貨はフランスとドイツが主導権を握っているといって過言ではない。 ドイツは特に顕著でいずれはユーロ通貨管理国をめざしている。 ところが今回のNATO参戦で第二次世界大戦敗北後、初めての国外への軍事行動に踏み切るなど、同国通貨に不安要因を作る結果となり、今後の推移が懸念されている。
ユーロと呼ぶ通貨単位は確定したが、まだ紙幣もコインも存在しない、二○○二年の七月の通貨流通開始までに百三十憶枚の紙幣、五百六十憶枚のコインを必要とするといわれる。 勿論この数字は現在の加盟国十一ヵ国の見積使用量であり、加盟が増えればさらに造幣額が増える。 通貨の製造は既にデザインも決まりフル稼働で製造が開始されている。 ドイツ造幣局では現在二十四時間態勢でコインの生産が行われており、スペインの造幣局では紙幣が作られている。 複数国が使用する国際通貨でもあるユーロはもし偽造通貨が流通した場合、未曾有の被害が見込まれる。 そのためには種々の特殊細工を施したデザインは勿論造幣技術が優れているドイツ・スペインなどが選ばれ生産を開始したのであるが、問題はそのコスト、ドイツに比べれば初年度ではスペインでは約二分の一で出来あがる。 ドイツのユーゴ戦参戦に起因する通貨不安はユーロ通貨の造幣にも影響を与え兼ねないのである。 欧州では特にアフリカや中東の小国のために通貨の造幣を引き受ける特殊会社が存在し、そのひとつであるドイツ・ミュンヘンの業者はユーロ通貨の製造を引き受けていまやゴールドラッシュの様な勢いである。 政府の造幣局より生産コストも安いので、相当量のユーロ通貨の造幣を引き受けている様子である。
その結果、アフリカの一部の国で本年後半には交換通貨が不足して、流通にも外貨を代用せざるをえない小国が今年から来年にかけて生まれるとの事。 それほどこのユーロの誕生は多くの通貨が必要となり、また旧各国の紙幣の処分もいずれ大問題となる。 偽造を防止する手段として紙幣には通常許可されないインクなども使用されており、大量の紙幣の焼却などにあたっては、化学的な薬害も生じる危険も予想される。
一九九九年に始まった新通貨であるユーロは、当面、日米欧の一部銀行ではトラベラーチェックを発行する事になったが、それも二、三のユニットチェックのみで百と五十ユーロが主流、そのうえ外国為替取扱店舗でも販売している銀行の本支店はまだわずかで、日本では事前予約を必要とする銀行もある。 では一九九九年、とりあえずなにから始めるのかというと、各国銀行、商店などでは本年からすべての価格表示について自国通貨価格とユーロ概算額の併記表示をすることになった。 いわゆる欧州の単価の目安となる指針として利用される。
例えばフランス製造のミネラルウォーターの価格をとれば、フランスでは仏通貨、ドイツでは独通貨で表示されるが同時にユーロでも表記されるので、その価格に差額があれば、ある意味で国別の物価実勢指数を知る事が出来る。 つまり、数点の物件について価格を比較することで、どちらの国の物価指数が低いか判別の基準の参考に出来よう。
日本では前述通り一九九九年当初から数社の銀行でトラベラーチェックの発行に踏み切ったが、引き受ける側の欧州の店舗などでは、一、二割の割合でしか引き受けをしてくれない。 勿論これも空港の免税店や非課税売店などが主な取扱店であり、また引き受けてくれても、百ユーロ、五十ユーロの二種類程度でそれ以外の単位のチェックは拒絶されることが多いといわれる。 それに釣銭などは全て使用した空港の国の通貨や、手持ちがあれば日本円で精算してくれる。 滞在する国でなく単に乗り継ぎ空港などでユーロを使い釣銭をその国の通貨で受け取っても目的国の通貨ではないので使用出来るのは結局ユニセフヘの寄付しか使い道がなかったりするので注意が必要。 二年後には自国通貨になるというのに欧州では未だユーロは将来の自国通貨として認知すらされていない事が多いのに驚くのは日本人的考え方で欧州人は気にもかけないのが普通。
当面、ユーロでは紙幣を最初に導入を図りコインを流通の段階にまで至るには二○○二年以後だという。 平均十七パーセント程度を付加する欧州の消費税の実態を考えても、十分なコインが確保されない限り、混乱以外の何もでもない。 その上欧州型消費税は打ち内税方式、コイン不足ではまず考えるのは四捨五入の方式での便乗値上げ。 その上日本人が欧米を旅していつも経験するのが店員の釣銭間違えの多さ、多くの日本人が経験しているショッピングの時の悪夢の様な経験、それも日本では小学生でもこんな間違えをしないと思われる様な事を平然とドジるので、それが複数通貨での勘定となれば、まずほとんど被害に出くわすと思われるし釣銭パニックが予想出来る。
例外は二○年前のソビエト・モスクワ・シェレメーチボ第二空港の免税店にいたオバサン、当時の東欧やキューバまで通常西側で使わない通貨まで熟知していて、まったく判らない言葉を乱発しながら呉れる釣銭の正確だった事、あんなオバサンをヨーロッパに輪出し、ユーロ担当に採用すれば今のソビエトはもっと裕福になるのにと、変な事を思い出す。
それは兎に角現実に二○○二年の新通貨使用開始時まではユーロ通貨はサブ通貨であり国別、銀行別で両替や交換の手数料がさまざまで国によっては相当額の手数料を請求されるおそれがある。 レートは固定されたが手数料は依然全面通貨変更までは各国の設定がベース。 本来ユーロ通貨の誕生の最大の理由は各国間の交流簡素化と通貨交換手数料の削滅が最大の目的であったが、これから約一年半にわたる経過期間は今まで以上の手数料を支払わされる結果となると見てよい。 なぜならこれはユーロ通貨自体がないのだからそれぞれの国の通貨がそれを代用する事にもなるが、空港などでは自国通貨が不足した場合その国以外の通貨による支払いが生じても文句も言えず、釣銭を受け取らざるを得ない事も考えておかねばならぬ。 つまり二○○二年七月には欧州が一つの通貨になるのではなく、三分の二程度に通貨数が減る程度の理解力の方が混乱しないで済む。
たとえば英国、スイスの両基軸通貨国ではユーロには加盟しないので、すべてのユーロ通貨は依然としてこれらの国では交換が必要となる、この二国は通貨の両替手数料が昔から高い事で有名で米国ドルなどに比べるとコミッションが大幅である。 つまりユーロは彼らからすればフランス、ドイツ二大農業国のための通貨の感じが拭えないのである。 また二○○二年末までは、商店などではユーロを引き受ける義務はなく受け取り拒絶も出来る。 これ実は大変に重要な事で未だにクレジットカード文化に疎い、現金主義の日本人や英国の上流社会の連中にとっては、時によりパリのカフェでは夕食も出来なくなってしまう。 つまりカフェテラスではフラン通貨だけでも商売には影響を受けないし、ユーロで支払われても、チップのあんばいもわからないのではギャルソンは相手にしてくれないから。
クレジットカード支払いではユーロでも、使用国の通貨でもどちらでも支払いが出来るが、ほとんどのカードでは普通その国の通貨単位で記載するだろう。 日本での支払いの換算は当該国のその日の決済レートで計算される。 直接ユーロを日本円に換算するのではなく、フランスであればその国の銀行やクレジットカード会社は一度ユーロを自国通貨に換算し、さらに日本円への換算が行われるのですべて二回の換算で割高、ユーロでの支払いは損となる。
現在日本人は海外に口座を持つことが出来る様になっており、自由に欧州の銀行に口座を設置出来るが二○○二年までは当該国通貨または米国ドルがほとんど。 例えばオランダで口座を開設した場合、現在はオランダギルダーでの口座開設となるが、二○○二年七月一日からは、ユーロ加盟国に限りこれが自動的にユーロ通貨口座に切り替わる。 ただし約定をしておけば旧通貨単位での口座は存続可能らしいが明白ではない。 しかし英国で口座を開設しても、ユーロには未加盟なので英国ポンドとしての口座が二○○二年以降も存続する事になりユーロ通貨には移行しない。
ではなぜ英国やスイスそして北欧などが参加しないのか、これについては国間によって大きな違いがある。 まずスイスであるが世界通貨の小鬼といわれる同国の金銭感覚、銀行などの金融機関の態勢、国勢の現状、立法及び行政の国民全ての参政権などの違いなど、いちがいに説明が出来ない程複雑な考え方をみせるのがスイスで、未だに金銭的には欧州内でありながら欧州に属さないのがスイス理念といえる。 ヒットラーの財産、パーレビーの資産、最近ではスハルトの蓄財など、スイス通貨の特異性はいまでも変わっていない。 世界の各国の国税庁が一番難儀する国でもある。 勿論観光王国であるスイスは自国にプラスとなる欧州連合鉄道(ユーレイル)などには率先して加盟しているが通貨となると別の意味からの信用度が抜群であるだけでなく、最終的に米国ドルが拒否されてもスイス通貨は引き受ける姿勢を見せる世界の国々が多い現状をみても、他国通貨と協調を図る必要などは皆無で価値レベルも平均して他国を圧倒している。 このためだけではなくとも、スイスにとって、代替通貨や寄り合い通貨などは兌換にも程遠く論外にほかならない。 つぎに英国は気位などが依然として友好や協調に優先するお国柄で島国根性は日本とよい勝負で、昔からコンチネント(大陸諸国)とは一線を画す事が大義名分として存在する。 英国病と呼ばれた一九七○年代の弱体王国は今や鳴りをひそめ、サッチャー首相、そしてその後の彼女の院政によって長期政権となったメジャー首相の政治手腕により大英帝国時代を彷彿とするまでに経済の復興を図った英国は、いまや自国通貨を欧州通貨と置き換えたい程である。
第二次大戦後、EECにはじまった欧州のボーダーレスの流れにも依然として消極的で、旅券の検査などもいまだに独自の物差しを使用する程であり、いまやトンネルで結ばれる様になった英仏海峡であるが、英国国鉄は依然として欧州の鉄道パスには加盟せず独自のブリットパスを使用し出入国管理も独自の基準で行っているEUの中の異端児。
北欧の未参加についてはおそらく各国自身が小国であり、王制の国が多い。 また人口もそれほど多くはなく通貨の統一化により自国通貨が事実上消滅する様な印象を持つ統一通貨への移行は王族のシルエットが残る紙幣を愛して来た国民感情が許さないなにかを秘めている様な気がする。 共和国と立憲君主国の違いが見えかくれする。 最近戦禍にまみえたユーゴやセビリア、コソボ、そして東欧を挟んでの欧州の最南端ギリシャは本来のEU地区とは離別しており、また国民の交流なども西欧とは全く異なる。 生活文化、価値観、物価指数などをとってもユーロへの併合には問題がありそうで、この度の決定は当然と思われる。
ユーロは英語のEの筆記体をデザインしたもので表記される。 最新の情報ではやっと昨今欧州の主要空港の両替所でも、ゴタゴタがなくトラベラーチェックの交換が出来る様になったが、実際に交換する時は、当分若干のいやな思いをする事になりそう。 なにしろ現金でも米二○ドル、英二○ポンド以上の紙幣となると、窓口の店員はスカシや特殊印刷リボンを必ず透かして本物や否やチェックする。 これに以外と時間がかかる。 新ユーロ通貨のトラベラーズチェックのデザインは当然だが周知していないので、おそらく数回にわたり交換時にはチェックの憂き目にあおう。 間違っても立ち寄り空港などでユーロ通貨を英国でフランに替えたり、パリでポンドに替えない様にしないと、時間がかかるだけではなく、ユーロから欲しい通貨への換金までに二~三度に重複して手数料を請求される事は覚悟しておいた方がいい。 ユーロと目的国の通貨レートはリンクされていても、途中の第三国通貨が立ち入ればすべて『ご破算にねがいましては........』となるからだ。
ユーロの本拠地はベルギーのブルッセルに置かれた。 ECに始まった欧州統合のホームベースであるベルギーはベネルックス三国の中心だけではなくいわば欧州の臍、国自体には特別なものはないがなんとなく本拠地に出来る無難な場所である。 おそらく他のドイツやフランスに本拠地を置けば、この通貨同盟は長続きする筈がないと、欧州主要国の首脳全員が思っていると想像出来る。 つまり強国がなにかをすれば必ず、コジレルのが過去数百年の欧州であって、根底のどこかに単一通貨の成功など信じていない面すら見え隠れするのが現状でもある。 異文化こそ文化などという文化相がいる欧州故か。 でもドイツはいまでも欧州通貨枢機国をめざしているらしい。 欧州当初の模索は米国、英国、日本通貨などに並ぶ基軸通貨を保有する事であり、日米も欧州統合通貨の誕生は協調だけではなく、世界への通貨安定供給にも利便があり喜ばしい事として歓迎した。 しかし現在の様に英国、スイスなどが入らない通貨では、期待した基軸通貨には若干不本意なものである事は間違いなく、ユーロ通貨の流通の速度によっては、同盟国の間や自体からも不満や拒絶反応が出てきそうな気がしてならない。
今回の統一通貨第一弾では、片肺飛行的なスタートとなった。 紙幣やコイン一枚ないままでのスタートライン、当初の予定参加国の減少、依然として存在し脅威となっている各国通貨間のギャップ、発行紙幣、基金の兌換能力への懸念など問題は山積とも言える。
通貨とはかかわりはないが、欧州ではEU加盟国間などの免税が事実上なくなった。 この動きは既に実施されているが、欧州内往来では欧州居住者には免税が適用されなくなった。 日本人などの欧州外の住民に限り免税の恩恵を受けられる。 問題は英国で買った商品をフランス経由で持ち帰る場合、英国税関では東京までの通し切符所持者以外は免税の証明をしないケースが起きる。 パリのフランス税関では東京行きの乗客の免税品は証明はするが、払い戻し窓口は英国製品の証明は受け付けてくれない。 証明を受けても英国に書類を送り返す手続きをしないと税金は戻らない。 近年はクレジットカードに払い戻す方法と空港で現金で返却してくれるケースが多いが、前述の例ではパリで現金では受け取れない。 でもガッカリする事はない。 欧米でのタックスフリーの返却窓口が何と今や成田空港に開設され日本円で戻ってくる。 ダンヒルの買い物の税金が成田で戻る様になったがこれはユーロとはまったく無関係の恩恵。
(平成十年)
(荒井利治)
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当該国通貨とユーロとの換算レートは一九九八年十二月三十一日のレートを基準として固定処置が行われた。 これは一九九九年一月一日から二○○二年までの通貨相場を設定する指針として固定し、最終的に基軸となる円対ユーロ、ドル対ユーロの動きを表記させる意味を持って定めたもので、二○○二年までの間には大巾な変動などが生じた場合には変更も検討される事になろう。 はたして一九九九年三月にはユーゴに対してNATOは戦時体制をとる処置に出て、不本意のままに参戦を余儀なくされたEU加盟国も出て、通貨の価値変動が大巾になってきている。 今回のユーロ通貨はフランスとドイツが主導権を握っているといって過言ではない。 ドイツは特に顕著でいずれはユーロ通貨管理国をめざしている。 ところが今回のNATO参戦で第二次世界大戦敗北後、初めての国外への軍事行動に踏み切るなど、同国通貨に不安要因を作る結果となり、今後の推移が懸念されている。
ユーロと呼ぶ通貨単位は確定したが、まだ紙幣もコインも存在しない、二○○二年の七月の通貨流通開始までに百三十憶枚の紙幣、五百六十憶枚のコインを必要とするといわれる。 勿論この数字は現在の加盟国十一ヵ国の見積使用量であり、加盟が増えればさらに造幣額が増える。 通貨の製造は既にデザインも決まりフル稼働で製造が開始されている。 ドイツ造幣局では現在二十四時間態勢でコインの生産が行われており、スペインの造幣局では紙幣が作られている。 複数国が使用する国際通貨でもあるユーロはもし偽造通貨が流通した場合、未曾有の被害が見込まれる。 そのためには種々の特殊細工を施したデザインは勿論造幣技術が優れているドイツ・スペインなどが選ばれ生産を開始したのであるが、問題はそのコスト、ドイツに比べれば初年度ではスペインでは約二分の一で出来あがる。 ドイツのユーゴ戦参戦に起因する通貨不安はユーロ通貨の造幣にも影響を与え兼ねないのである。 欧州では特にアフリカや中東の小国のために通貨の造幣を引き受ける特殊会社が存在し、そのひとつであるドイツ・ミュンヘンの業者はユーロ通貨の製造を引き受けていまやゴールドラッシュの様な勢いである。 政府の造幣局より生産コストも安いので、相当量のユーロ通貨の造幣を引き受けている様子である。
その結果、アフリカの一部の国で本年後半には交換通貨が不足して、流通にも外貨を代用せざるをえない小国が今年から来年にかけて生まれるとの事。 それほどこのユーロの誕生は多くの通貨が必要となり、また旧各国の紙幣の処分もいずれ大問題となる。 偽造を防止する手段として紙幣には通常許可されないインクなども使用されており、大量の紙幣の焼却などにあたっては、化学的な薬害も生じる危険も予想される。
一九九九年に始まった新通貨であるユーロは、当面、日米欧の一部銀行ではトラベラーチェックを発行する事になったが、それも二、三のユニットチェックのみで百と五十ユーロが主流、そのうえ外国為替取扱店舗でも販売している銀行の本支店はまだわずかで、日本では事前予約を必要とする銀行もある。 では一九九九年、とりあえずなにから始めるのかというと、各国銀行、商店などでは本年からすべての価格表示について自国通貨価格とユーロ概算額の併記表示をすることになった。 いわゆる欧州の単価の目安となる指針として利用される。
例えばフランス製造のミネラルウォーターの価格をとれば、フランスでは仏通貨、ドイツでは独通貨で表示されるが同時にユーロでも表記されるので、その価格に差額があれば、ある意味で国別の物価実勢指数を知る事が出来る。 つまり、数点の物件について価格を比較することで、どちらの国の物価指数が低いか判別の基準の参考に出来よう。
日本では前述通り一九九九年当初から数社の銀行でトラベラーチェックの発行に踏み切ったが、引き受ける側の欧州の店舗などでは、一、二割の割合でしか引き受けをしてくれない。 勿論これも空港の免税店や非課税売店などが主な取扱店であり、また引き受けてくれても、百ユーロ、五十ユーロの二種類程度でそれ以外の単位のチェックは拒絶されることが多いといわれる。 それに釣銭などは全て使用した空港の国の通貨や、手持ちがあれば日本円で精算してくれる。 滞在する国でなく単に乗り継ぎ空港などでユーロを使い釣銭をその国の通貨で受け取っても目的国の通貨ではないので使用出来るのは結局ユニセフヘの寄付しか使い道がなかったりするので注意が必要。 二年後には自国通貨になるというのに欧州では未だユーロは将来の自国通貨として認知すらされていない事が多いのに驚くのは日本人的考え方で欧州人は気にもかけないのが普通。
当面、ユーロでは紙幣を最初に導入を図りコインを流通の段階にまで至るには二○○二年以後だという。 平均十七パーセント程度を付加する欧州の消費税の実態を考えても、十分なコインが確保されない限り、混乱以外の何もでもない。 その上欧州型消費税は打ち内税方式、コイン不足ではまず考えるのは四捨五入の方式での便乗値上げ。 その上日本人が欧米を旅していつも経験するのが店員の釣銭間違えの多さ、多くの日本人が経験しているショッピングの時の悪夢の様な経験、それも日本では小学生でもこんな間違えをしないと思われる様な事を平然とドジるので、それが複数通貨での勘定となれば、まずほとんど被害に出くわすと思われるし釣銭パニックが予想出来る。
例外は二○年前のソビエト・モスクワ・シェレメーチボ第二空港の免税店にいたオバサン、当時の東欧やキューバまで通常西側で使わない通貨まで熟知していて、まったく判らない言葉を乱発しながら呉れる釣銭の正確だった事、あんなオバサンをヨーロッパに輪出し、ユーロ担当に採用すれば今のソビエトはもっと裕福になるのにと、変な事を思い出す。
それは兎に角現実に二○○二年の新通貨使用開始時まではユーロ通貨はサブ通貨であり国別、銀行別で両替や交換の手数料がさまざまで国によっては相当額の手数料を請求されるおそれがある。 レートは固定されたが手数料は依然全面通貨変更までは各国の設定がベース。 本来ユーロ通貨の誕生の最大の理由は各国間の交流簡素化と通貨交換手数料の削滅が最大の目的であったが、これから約一年半にわたる経過期間は今まで以上の手数料を支払わされる結果となると見てよい。 なぜならこれはユーロ通貨自体がないのだからそれぞれの国の通貨がそれを代用する事にもなるが、空港などでは自国通貨が不足した場合その国以外の通貨による支払いが生じても文句も言えず、釣銭を受け取らざるを得ない事も考えておかねばならぬ。 つまり二○○二年七月には欧州が一つの通貨になるのではなく、三分の二程度に通貨数が減る程度の理解力の方が混乱しないで済む。
たとえば英国、スイスの両基軸通貨国ではユーロには加盟しないので、すべてのユーロ通貨は依然としてこれらの国では交換が必要となる、この二国は通貨の両替手数料が昔から高い事で有名で米国ドルなどに比べるとコミッションが大幅である。 つまりユーロは彼らからすればフランス、ドイツ二大農業国のための通貨の感じが拭えないのである。 また二○○二年末までは、商店などではユーロを引き受ける義務はなく受け取り拒絶も出来る。 これ実は大変に重要な事で未だにクレジットカード文化に疎い、現金主義の日本人や英国の上流社会の連中にとっては、時によりパリのカフェでは夕食も出来なくなってしまう。 つまりカフェテラスではフラン通貨だけでも商売には影響を受けないし、ユーロで支払われても、チップのあんばいもわからないのではギャルソンは相手にしてくれないから。
クレジットカード支払いではユーロでも、使用国の通貨でもどちらでも支払いが出来るが、ほとんどのカードでは普通その国の通貨単位で記載するだろう。 日本での支払いの換算は当該国のその日の決済レートで計算される。 直接ユーロを日本円に換算するのではなく、フランスであればその国の銀行やクレジットカード会社は一度ユーロを自国通貨に換算し、さらに日本円への換算が行われるのですべて二回の換算で割高、ユーロでの支払いは損となる。
現在日本人は海外に口座を持つことが出来る様になっており、自由に欧州の銀行に口座を設置出来るが二○○二年までは当該国通貨または米国ドルがほとんど。 例えばオランダで口座を開設した場合、現在はオランダギルダーでの口座開設となるが、二○○二年七月一日からは、ユーロ加盟国に限りこれが自動的にユーロ通貨口座に切り替わる。 ただし約定をしておけば旧通貨単位での口座は存続可能らしいが明白ではない。 しかし英国で口座を開設しても、ユーロには未加盟なので英国ポンドとしての口座が二○○二年以降も存続する事になりユーロ通貨には移行しない。
ではなぜ英国やスイスそして北欧などが参加しないのか、これについては国間によって大きな違いがある。 まずスイスであるが世界通貨の小鬼といわれる同国の金銭感覚、銀行などの金融機関の態勢、国勢の現状、立法及び行政の国民全ての参政権などの違いなど、いちがいに説明が出来ない程複雑な考え方をみせるのがスイスで、未だに金銭的には欧州内でありながら欧州に属さないのがスイス理念といえる。 ヒットラーの財産、パーレビーの資産、最近ではスハルトの蓄財など、スイス通貨の特異性はいまでも変わっていない。 世界の各国の国税庁が一番難儀する国でもある。 勿論観光王国であるスイスは自国にプラスとなる欧州連合鉄道(ユーレイル)などには率先して加盟しているが通貨となると別の意味からの信用度が抜群であるだけでなく、最終的に米国ドルが拒否されてもスイス通貨は引き受ける姿勢を見せる世界の国々が多い現状をみても、他国通貨と協調を図る必要などは皆無で価値レベルも平均して他国を圧倒している。 このためだけではなくとも、スイスにとって、代替通貨や寄り合い通貨などは兌換にも程遠く論外にほかならない。 つぎに英国は気位などが依然として友好や協調に優先するお国柄で島国根性は日本とよい勝負で、昔からコンチネント(大陸諸国)とは一線を画す事が大義名分として存在する。 英国病と呼ばれた一九七○年代の弱体王国は今や鳴りをひそめ、サッチャー首相、そしてその後の彼女の院政によって長期政権となったメジャー首相の政治手腕により大英帝国時代を彷彿とするまでに経済の復興を図った英国は、いまや自国通貨を欧州通貨と置き換えたい程である。
第二次大戦後、EECにはじまった欧州のボーダーレスの流れにも依然として消極的で、旅券の検査などもいまだに独自の物差しを使用する程であり、いまやトンネルで結ばれる様になった英仏海峡であるが、英国国鉄は依然として欧州の鉄道パスには加盟せず独自のブリットパスを使用し出入国管理も独自の基準で行っているEUの中の異端児。
北欧の未参加についてはおそらく各国自身が小国であり、王制の国が多い。 また人口もそれほど多くはなく通貨の統一化により自国通貨が事実上消滅する様な印象を持つ統一通貨への移行は王族のシルエットが残る紙幣を愛して来た国民感情が許さないなにかを秘めている様な気がする。 共和国と立憲君主国の違いが見えかくれする。 最近戦禍にまみえたユーゴやセビリア、コソボ、そして東欧を挟んでの欧州の最南端ギリシャは本来のEU地区とは離別しており、また国民の交流なども西欧とは全く異なる。 生活文化、価値観、物価指数などをとってもユーロへの併合には問題がありそうで、この度の決定は当然と思われる。
ユーロは英語のEの筆記体をデザインしたもので表記される。 最新の情報ではやっと昨今欧州の主要空港の両替所でも、ゴタゴタがなくトラベラーチェックの交換が出来る様になったが、実際に交換する時は、当分若干のいやな思いをする事になりそう。 なにしろ現金でも米二○ドル、英二○ポンド以上の紙幣となると、窓口の店員はスカシや特殊印刷リボンを必ず透かして本物や否やチェックする。 これに以外と時間がかかる。 新ユーロ通貨のトラベラーズチェックのデザインは当然だが周知していないので、おそらく数回にわたり交換時にはチェックの憂き目にあおう。 間違っても立ち寄り空港などでユーロ通貨を英国でフランに替えたり、パリでポンドに替えない様にしないと、時間がかかるだけではなく、ユーロから欲しい通貨への換金までに二~三度に重複して手数料を請求される事は覚悟しておいた方がいい。 ユーロと目的国の通貨レートはリンクされていても、途中の第三国通貨が立ち入ればすべて『ご破算にねがいましては........』となるからだ。
ユーロの本拠地はベルギーのブルッセルに置かれた。 ECに始まった欧州統合のホームベースであるベルギーはベネルックス三国の中心だけではなくいわば欧州の臍、国自体には特別なものはないがなんとなく本拠地に出来る無難な場所である。 おそらく他のドイツやフランスに本拠地を置けば、この通貨同盟は長続きする筈がないと、欧州主要国の首脳全員が思っていると想像出来る。 つまり強国がなにかをすれば必ず、コジレルのが過去数百年の欧州であって、根底のどこかに単一通貨の成功など信じていない面すら見え隠れするのが現状でもある。 異文化こそ文化などという文化相がいる欧州故か。 でもドイツはいまでも欧州通貨枢機国をめざしているらしい。 欧州当初の模索は米国、英国、日本通貨などに並ぶ基軸通貨を保有する事であり、日米も欧州統合通貨の誕生は協調だけではなく、世界への通貨安定供給にも利便があり喜ばしい事として歓迎した。 しかし現在の様に英国、スイスなどが入らない通貨では、期待した基軸通貨には若干不本意なものである事は間違いなく、ユーロ通貨の流通の速度によっては、同盟国の間や自体からも不満や拒絶反応が出てきそうな気がしてならない。
今回の統一通貨第一弾では、片肺飛行的なスタートとなった。 紙幣やコイン一枚ないままでのスタートライン、当初の予定参加国の減少、依然として存在し脅威となっている各国通貨間のギャップ、発行紙幣、基金の兌換能力への懸念など問題は山積とも言える。
通貨とはかかわりはないが、欧州ではEU加盟国間などの免税が事実上なくなった。 この動きは既に実施されているが、欧州内往来では欧州居住者には免税が適用されなくなった。 日本人などの欧州外の住民に限り免税の恩恵を受けられる。 問題は英国で買った商品をフランス経由で持ち帰る場合、英国税関では東京までの通し切符所持者以外は免税の証明をしないケースが起きる。 パリのフランス税関では東京行きの乗客の免税品は証明はするが、払い戻し窓口は英国製品の証明は受け付けてくれない。 証明を受けても英国に書類を送り返す手続きをしないと税金は戻らない。 近年はクレジットカードに払い戻す方法と空港で現金で返却してくれるケースが多いが、前述の例ではパリで現金では受け取れない。 でもガッカリする事はない。 欧米でのタックスフリーの返却窓口が何と今や成田空港に開設され日本円で戻ってくる。 ダンヒルの買い物の税金が成田で戻る様になったがこれはユーロとはまったく無関係の恩恵。
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